菊正宗「大吟醸deあま酒」が“飲む点滴”“飲む美容液”と称される由縁。

朝の情報番組での“飲む点滴”紹介で、「甘酒」の市場規模が急成長。

ずっと以前から、「甘酒」は、
主に50から60代が購買層の中心で、
知る人ぞ知る健康補助食品
という位置付けでした。

ところが、2016年(平成28年)、
朝の情報番組で、
栄養豊富なところにスポットを当てた
“飲む点滴”というキャッチーな
フレーズで紹介されて以降、
他の情報番組でも
取り上げられるようになり、
さらに、その含有栄養素から
“飲む美容液”
とも紹介されたことから、
20〜40代女性層の支持を得て
大きなブームに。

いわゆる“甘酒女子”の誕生です。

2015年(平成27年)までの
「甘酒」市場規模は、
50〜75億円規模だったものが、
2016年(平成28年)には、前年比
約4倍の200億円を突破した
「甘酒」の第一次ブームが到来。

時間とともに一過性の流行は
治ったものの、これをキッカケに、
「甘酒」の市場規模は約290億円とも
いわれるほどにまで成長しました。

とくに現在、コロナ禍にあって、
免疫力向上への期待から
消費が急増している醗酵食品。

その醗酵食品の代表格ともいえる
「甘酒」は、これまで以上に
消費者の健康志向が高まったことや、
自宅時間が増えることで
幅広い年齢層に飲用習慣が
定着していきました。

また、自宅時間でスイーツや料理の
隠し味に「甘酒」を使うなど、
第二次ブームの到来と見る向きも
いるようです。

「甘酒」の市場規模が
大きく成長するに伴って、
「麹甘酒」の需要が一気に増加し、
市場全体の6割以上を
占めるまでになりました。

以前にもこのコラムで紹介しましたが、
「あま酒」はその製法によって、
大きく、「麹甘酒」と「酒粕甘酒」の
2つに分類されます。

「麹甘酒」は、麹菌による酵素の力で
米の澱粉をブドウ糖に、
タンパク質をアミノ酸に分解。

麹菌が生産する機能性成分を
余すところなく摂取できる
自然由来のブドウ糖やオリゴ糖
による甘味を持った「甘酒」です。

米麹から造られた「甘酒」なので、
アルコールは含まれておらず、
アルコールが苦手の方や子供さんなど、
安心して飲むことができます。

「酒粕甘酒」は、酒粕を水で溶かして、
砂糖添加により甘さを調整。

酒粕が有する機能性成分を
余すところなく摂取できる
「甘酒」といえます。

ご存知のように、酒粕は、日本酒を
造る際の残った搾りかすで、
日本酒はもともと、
米と麹と水を原材料にして、
麹菌や酵母菌などの働きによって
アルコールがつくられるため、
酒粕にもアルコール分が残り、
日本酒のようなフルーティーな香りや
深いコクを楽しめる一方、
アルコールに弱い方や妊娠中の方、
お子さんは、飲む際の注意が必要です。

 

麹由来と酒粕由来。
菊正宗の「大吟醸deあま酒」は夏場の栄養補給に最適。

「麹甘酒」の主な栄養成分は、、
ブドウ糖、アミノ酸、オリゴ糖、
ビタミンなど。

ブドウ糖は小腸からそのまま
吸収されるため速やかな
栄養補給が可能。

また、ブドウ糖だけではなく、
アミノ酸、オリゴ糖、ビタミン
などといった栄養素が豊富に
含まれることから
“飲む点滴”と呼ばれているのです。

さらに、麹菌がつくるオリゴ糖は、
整腸作用が期待される
ビフィズス菌のエサとなり、
麹菌の菌体成分には
免疫賦活効果が認められています。

「酒粕甘酒」の主な栄養成分は、
ビタミンB2、B6、ナイアシン、
葉酸などのビタミンが大量に
含まれているのが特徴です。

清酒醸造工程において
酵素で分解されなかった
タンパク質(難消化性蛋白質)や
食物繊維(難消化性でんぷん)が
ギュッと濃縮されているため、
摂取した脂肪やコレステロールを
体外へ排出したり、
小腸での糖の消化吸収を抑えて
血糖値の急上昇を抑制したり、
大腸でビフィズス菌のエサになる
ことで整腸作用が期待できるなど、
非常に優秀な自然食品といえます。

それぞれに含まれている栄養成分は
異なりますが、注目したいのは、
どちらも美肌づくりに効果の高い
成分がさらに含まれる点です。

「麹甘酒」に含まれる
“エルゴチオネイン”は、
肌のキメを整える美肌効果が
認められて“飲む美容液”と称され、
「酒粕甘酒」に含まれる“α-EG”は、
保湿効果に加え、
肌細胞のコラーゲン密度を高める
効果が判明しています。

菊正宗では、このふたつの良い所を
ひとつにまとめた
「大吟醸deあま酒」を販売中。

大吟醸麹と大吟醸酒粕に由来する、
やさしい甘さとスッキリした後味、
滑らかな舌触りが、
「大吟醸deあま酒」の特長です。

夏場の暑さに疲れた身体への
エネルギーチャージとして、
ぜひお試しいただきたい商品です。

「浴衣」は夏の洒落た定番アイテムに。SNSで「浴衣」映えが拡散。

「浴衣」は、仏教とともに伝わった“湯帷子(ゆかたびら)”が原型。

今回は、「浴衣」に関するお話を。

新型コロナが発生していない、
いつもの夏シーズンであったのなら、
夏祭りや花火大会など、
「浴衣」を着る機会も多く、
また、外国からの訪日観光客が
京都の町屋で「浴衣」に着替え、
京都の街を散策するシーンが、
恒例の涼しげな夏の風物詩として
取り上げられていたことでしょう。

そんな夏の納涼シーンにつきものの
「浴衣」ですが、
その歴史は意外と古く
“仏教公伝”にまで遡ります。

“「浴衣」は、仏教とともに伝わった
“湯帷子(ゆかたびら)”が原型。

仏教公伝”の時期は、
552年や538年などの諸説がありますが
いずれの時期であったとしても、
仏教が伝わった際に建立した寺院には
湯堂や浴堂と呼ばれる沐浴のための
施設が併設され、それが日本の
“風呂”の起源というのが定説です。

というのも、それまでは、
神道の風習による、
川や滝で行われた沐浴の一種とされる
“禊(みそぎ)”により身を
清める習慣や
桶に水を張って身体を洗う
“行水”が、いわゆる
風呂のようなものでした。

それが、“仏教公伝”とともに、
病を退けて福を招来する沐浴施設が
伝わったことで(当時伝わった
“風呂”は、薬草を入れた湯を
沸かして、その蒸気を取り込んだ
蒸し風呂スタイル)
“風呂”に入ることが、
習慣となっていきました。

また、“風呂”と一緒に
沐浴時の衣装も伝わりました。
沐浴時の衣装、つまり、
飛鳥時代の女性の斉明天皇が
湯浴みの際に着用していた
バスローブのような形の
“湯帳(ゆちょう)”や、
平安時代に貴族が風呂に入る際に
着用した“湯帷子(ゆかたびら)”が
「浴衣」の原型です。

前述したように、最初は“湯帷子”を
着て蒸し風呂に入るのが、
最初の“風呂”のスタイル
といえます。

“ゆかたびら”という単語の
発音から転じて「浴衣」になったと
考えると、自然と納得がいきます。

時は流れ、安土桃山時代には、
裸で湯に浸かる“入浴”という習慣が
定着し、湯上がりに濡れた肌の水気を
吸い取らせるために“湯帷子”を
着るようになりました。

江戸時代になって木綿が普及し、
それまでの麻織物に
取って代わるように、
より吸水性の高い綿織物の
“湯帷子”が登場。

このスタイルが庶民の間で流行し、
やがて現代の「浴衣」へと
繋がっていくことになります。

鎌倉時代に一部で鉄湯船という施設が
あったようですが、
浴槽に湯を張って身体を浸ける、
現在の“入浴”スタイルが
いつ頃発生したのかは不明です。

古くからの“行水”と、伝わった
“蒸し風呂”が融合して、現在の
“入浴”スタイルになったと
考えられています。

 

ここ最近になり、夏場に「浴衣」を着る機会は、かなり増えていました。

近代になり、“湯帷子”が転じた
「浴衣」は、
湯上がりに着る“部屋着”
として重宝されました。

洋服が日本に伝わり始めた頃は、
まだ庶民の服装は和服の時代です。

それが、昭和になって洋装が
増えると同時に、“寝巻き”としての
役割が主流となっていきます。

そのため、昼間に「浴衣」を着て
外出するのは、今でいうパジャマで
外出するようなもので、
ややはばかられる時期もありました。

現代の「浴衣」は、
夏場のお洒落アイテムのひとつです。

冒頭で述べた花火大会やお祭り、縁日
時にはスポーツ観戦やテーマパーク
などで“浴衣ナイト”などの
イベント開催など、
夏場に「浴衣」を着る機会が
増加したことが「浴衣」人気に
拍車をかけます。

また、SNSでの“映え投稿”などでも、
夏場のバズる
ファッションアイテムとして
欠かせない存在感を
発揮しているというから驚きです。

手頃な価格で着やすい「浴衣」は、
訪日外国人のお土産としても、
かなりの人気のようです。

先ごろも、イタリアの
女子新体操チームが、
日本での試合後の
くつろいだオフショットとして、
カラフルな「浴衣」を着た写真を
SNSに投稿し、話題となりました。

バスローブのように自由に着る様は
微笑ましいのですが、
できれば正しい着付けにより
「浴衣」を着てもらえたなら、
本来、着物が持つ様式美や
粋な着こなしを
実感していただけたかもと思います。

着物に限らず、日本の伝統文化は、
長い歴史によって確立された
様式美というものがあります。

いわゆる伝統に裏付けられた
ある種の敷居の高さでしょうか。

その敷居の高さを下げて
ニーズを得るのではなく、
その高い敷居のまたぎ方を
教えることが、その文化が持つ
伝統の深みが伝わるものです。

「浴衣」を始めとする
着物文化のみならず、
私たちが取り扱う日本酒文化、
和食文化、和建築文化など、
日本の伝統文化は、知れば知るほど、
かなり深く、
かなり粋な風格を持っています。

1日も早く、当たり前の日常が戻り、
夏の風物詩として、何の気兼ねもなく
「浴衣」を着て出かけることを
願うばかりです。

2021年8月30日 PayPay(オンライン決済)メンテナンス実施のお知らせ_菊正宗ネットショップ

お客様各位

平素は多大なるご愛顧を頂きまして誠にありがとうございます。

メンテナンス期間中はPayPay(オンライン決済)
をご利用いただけません。

ご迷惑をおかけいたしますことを深くお詫び申し上げますとともに、あらかじめご了承いただけますようお願い申し上げます。

~システムメンテナンス日時~
2021年8月30日(月)
午前01:00 – 午前05:30

※作業状況により、時間が多少前後する場合がございます。

ご利用のお客様にはご迷惑をおかけ致しましますが、今後ともご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2021年「打ち上げ花火」の開催事情。観覧時は、密を避けて、マスクをお忘れなく。

「夏の風物詩「打ち上げ花火」。昨年と比べると開催数も徐々に増えています。

夜空に大輪の花を咲かせる
「打ち上げ花火」は、
夏を代表する風物詩のひとつ。

いつもなら、花火大会は、
早いところで7月半ばから始まり、
8月に入るあたりからお盆頃に向けて
全国的な打ち上げ花火ラッシュと
なるところですが、
1年半にわたって続く
新型コロナ禍のため、
昨年の花火大会は
ほとんど中止となりました。

今年も中止のところが多いのですが、
一部、規模を縮小したり、
開催時期を延期したりするなど、
新型コロナ対策を十分にとって
開催される花火大会もあるようです。

日本三大花火大会に名を連ねるのは
秋田県の「大曲の花火」、
茨城県の「土浦全国花火競技大会」、
新潟県の「長岡まつり花火大会」
です。

残念ながら、
「大曲の花火」
「長岡まつり花火大会」は
中止と発表されましたが、
「土浦全国花火競技大会」は、
11月6日に延期予定。

これら以外の人気の花火大会の
開催予定状況は、
次の通りですが、
新型コロナの蔓延状況に応じて
変化するのでご注意を
(7月末現在)。

  • 北海道「帯広 勝毎花火大会」
    /中止
  • 秋田県「港まつり 能代の花火」
    /中止
  • 茨城県「大洗海上花火大会」
    /中止
  • 群馬県「高崎まつり大花火大会」
    /9月4日開催予定
  • 東京都「隅田川花火大会」
    /中止
  • 神奈川県
    「湯河原温泉海上花火大会」
    /8月21日開催予定
  • 埼玉県
    「西武園ゆうえんち 大火祭り」
    /9月5日まで、毎日開催
  • 静岡県
    「全国花火名人選抜競技大会
    ふくろい遠州の花火」/中止
  • 愛知県
    「岡崎城下家康公夏まつり
    花火大会」/中止
  • 愛知県
    「ISOGAI花火劇場
    in 名古屋港」
    /12月中旬開催予定
  • 滋賀県「びわ湖大花火大会」
    /中止
  • 三重県
    「伊勢神宮奉納全国花火大会」
    /中止
  • 大阪府「天神祭奉納花火」/中止
  • 大阪府「なにわ淀川花火大会」
    /中止
  • 大阪府「泉州夢花火」
    /8月28日・29日開催予定
  • 兵庫県
    「姫路みなと祭 海上花火大会」
    /11月13日開催予定
  • 鳥取県
    「米子がいな祭大花火大会」
    /中止
  • 長崎県
    「ハウステンボス
    九州一花火大会」
    /9月18日開催予定
  • 福岡県
    「メッセージ花火
    “愛・勇気・希望”恋の浦」
    /8月21日開催予定
    (320台限定のドライブイン方式)

有名な花火大会を紹介しましたが、
これでもほんの一部。

注目したいのは、
花火会場に車を乗り入れて、
車の中から花火を見上げる
ドライブイン方式が、
外出自粛の現在、
チラホラと増えていること。

今後、これ以外にも新しい
「打ち上げ花火」観覧スタイルが
生まれるかも知れませんね。

 

「打ち上げ花火」は、なぜ夏の風物詩なのでしょうか?

ここで、「打ち上げ花火」は、
なぜ夏の風物詩なのか
という疑問が湧きます。

まず、
「打ち上げ花火」の起源については、
江戸時代に隅田川で行われた
“水神祭”説が有力です。

当時、
江戸で流行った飢饉・疫病による
多数の死者の御霊を慰め、
悪疫退散を願って、
隅田川の川開きの日に
“水神祭”を開催し、
その際に、
「打ち上げ花火」を上げたのが
始まりとされるというもの。

同時に、
木造建築がひしめく江戸の町では
火事が多く、
当時の幕府が町屋近辺での
花火を禁止し、
“川の近くなら花火をしても良い”
というお触れを出したことと、
夏の暑さをしのぐ納涼の場が
川べりであったことが合わさって、
夏の川開きと「打ち上げ花火」は、
切っても切れない関係と
なっていきました。

もともと、
古くからお清めの儀式に
“火”が使われ、
花火を打ち上げる花火師が
次々と競うように現れたことも、
華やかなものを好む江戸の庶民に
受け入れたと考えられます。

花火の打ち上げが
川開きの行事として根付き、
やがて夏の風物詩として
認知されるようになりました。

時代が移り変わった現在、
安全面に配慮した
冬の「打ち上げ花火」も可能で、
実際に冬場のお祭りやスキー場での
「打ち上げ花火」もあります。

しかし、
寒さが厳しい冬に
屋外で空を見上げることや、
冬は風が強いという気候状況が、
「打ち上げ花火」には
あまり適していないため、
冬よりも、
圧倒的に夏の「打ち上げ花火」の方が
多いといえます。

現在はやはり、
観客が集まりやすい
規模の大きな花火大会は
中止のところが多く、
新型コロナ禍の収束を待つ
開催延期が多いようです。

来年こそは、こうした心配もなく、
かつてのように、普通の生活の中で
「打ち上げ花火」を楽しめることに
期待したいものです。

2020年の“東京”に紡がれた、「嘉納治五郎」の80年越しの熱い想い。

平和を願う“スポーツの力”は、数千年の昔から変わらない。

今年の夏は、いつもとは違う
“熱い闘い”
が繰り広げられています。

その原点となるのは、
遡ること約2800年前、
栄華を極めた
古代ギリシアで行われていた
スポーツ競技大会にたどり着きます。

4年に一度開催された
スポーツ競技大会の
最初の頃の記録は残っておらず、
現存する最古の記録となる
紀元前776年のものを
第1回としてカウント。

そして、長い時を経て、
西暦369年の第293回を最後に
スポーツ競技大会は、
その歴史に
幕を閉じることになりました。

計算の上では、1172年もの
歴史を重ねたこととなり、
記録が残っていない初期も含めると、
少なくとも1200年ほどの歴史が
あるのではと、
現在もギリシアの地では
初期の記録を求めて、
遺跡発掘が継続されています。

これだけ長く大きな
スポーツ競技の大会が続いたのは、
ゼウスを祭神とした
神事という意味合いが
強く反映されていたからでしょうか。

また、祭典競技期間は
すべての争いごとを止めて、
この祭典に挑むことが規定されていた
ということを考えると、
当時から“平和”への想いを、
スポーツに
託していたのかも知れません。

それから長い歳月を経て近代となり、
この“平和への願い”を継承した
世界的なスポーツ大会として
再開しました。

その根底には、
紛争国同士であっても、
この大会期間だけは
スポーツを通じて好敵手としての
絆を深めるという平和に向けた
理念が込められています。

そして、
極東の小さな島国であった日本が、
この国際スポーツ大会に
参加するキッカケとなったのは、
他ならぬ「嘉納治五郎」の
存在でした。

彼は、勝つことが目的の“柔術”を、
科学的な理論、精神的な鍛錬による
礼節を重んじる「柔道」へと
昇華させた側面が、
あまりにも有名です。

しかし、彼の偉業は、むしろ、
日本に大きな教育改革をもたらした
“教育者としての顔”ということは
あまり知られていません。

長期にわたる欧州視察によって得た
知識をもとに、国内で初めて
スポーツ振興という概念を
根付かせたのは、「治五郎」です。

また、“女子柔道”を始め、
男女が平等に勉強したり、
男女分け隔てなく
スポーツに打ち込むなど、
いち早く男女平等機会の
創出に奔走したことなど…
現在、当たり前のように行われている
体育の授業や放課後の部活動も、
「治五郎」が実際に教育現場で
成し得た実績のひとつです。

こうした、日本の教育改革の
先駆者である「治五郎」のもとに、
国際スポーツ大会組織委員会から
委員の就任要請が届いたのは
必然だったと思われます。

彼の興した「柔道」の競技人口が
欧州で増え始めたことをキッカケに、
彼の数々の教育に関わる取り組みが
認められた結果です。

礼に始まり礼に終わるフェアな
精神が宿る「柔道」を通して
広まった、彼の人望が
世界に認められた瞬間でした。

 

 

世界に根付いた「嘉納治五郎」が追い求めたフェアなスポーツマンシップ。

日本の代表としての組織委員就任は、
日本を国際大会へと
一歩近づけることになります。

彼の実直さはすぐに認められ、
組織委員就任の数年後には、大会への
選手派遣の要請が届きました。

ところが、
大会初参加前年に発生した
関東大震災の復興が
ままならない状態で、
大会への参加見送りを
検討する事態に。

しかし、“それまで積み上げてきた
スポーツの進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”という、
「治五郎」の強い主張のもと、
初めての国際大会参加を
無事終えることとなりました。

彼は、組織委員に就任して以降、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
国際会議への参加や大会視察など、
精力的に世界を駆け回りました。

そして、1933年(昭和8年)に
開催されたウィーンでの総会で
東京大会の招致を主張。

その後も、東京招致に反対する
加盟国に決してひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
東京大会の招致が決まりました。

しかし。

その翌年、洋行途中の船上で急逝。

彼が望んだ東京大会も
戦争により幻の大会となりました。

このことを
もっとも残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは、
いうまでもありません。

それから80年、東京の地で
彼の望んだ熱戦が
繰り広げられています。

彼がもっとも大切にした
フェアなスポーツマンシップは、
「柔道」のみならず、
他の競技でも
ルールの基本として根付き、
彼の“子供たち”の活躍を
喜んでいるのは「嘉納治五郎」
本人に違いありません。