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雨がシトシトと降る
梅雨時の憂鬱な気持ちを
拭い去ってくれる
「紫陽花(あじさい)」を
街角で見かける季節です。
「紫陽花」の花は、
咲き始めから成長するにつれて、
どんどん色を変化させます。
咲き始めの淡い緑黄色から
やがて薄れて白くなり、
青色もしくはピンク色へと変化。
最終的には
濃い紅紫や青紫へと咲き進みます。
また、花の色は
植えられている土壌によって
変わるとされ、
“酸性なら青”
“アルカリ性ならピンク”に。
さらに、
使われる肥料によっても
花の色は変わるとのこと。
もともとの「紫陽花」は、
日本原産の「ガクアジサイ」で、
日本最古の和歌集「万葉集」に
“味狭藍”“安治佐為”、
平安時代の「和名類聚抄」には
“阿豆佐為”
の字を当てたものが登場しますが、
しばらく歴史の舞台からは遠ざかり、
観賞用として
親しまれるようになったのは
第二次世界大戦以降になってから
のこと。
医療の発達していない昔、
季節の変わり目に亡くなる人が多い
梅雨の時期に咲き誇り、
寺院の境内や墓地に
植えられることも多いため、
死者への手向けの花としての
印象が強く、
4枚の花びらが“四=死”を
連想させる不吉な花として
忌み嫌われたようです。
また、「紫陽花」は別名が多く、
花の色の変化から
「七変化」「八仙花」、
花びらの数から「四片(よひら)」、
花が集まった丸い形から「手鞠花」
などと呼ばれます。
そして興味深いのが
「オタクサ」という呼び名です。
この別名については、
江戸時代末期、
オランダ陸軍軍医の
ドイツ人医師シーボルトが
長崎に渡来した時代にまで遡ります。
彼は身の回りの世話をしてくれた
“楠本滝”こと“お滝さん”に
限りない愛を注ぎますが、
“シーボルト事件”により
国外追放に。
日本に
“お滝さん”と二人の間にできた子供
“楠本いね”を残し、
失意のままにオランダへと帰国。
その際に
好きだった日本の「紫陽花」を
持ち帰り、
植物学者でもあった彼は
「紫陽花」の品種改良を行いました。
彼の著書
「日本植物誌
(フローラ・ヤポニカ)」に
「ヒドランゲア・オタクサ」
という学名で「紫陽花」を紹介。
日本語の発音ができず
“お滝さん”を“おたくさ”と
呼んでいたことから、
愛する人の名前を
新しい品種につけたもの。
これをきっかけに
「紫陽花」はヨーロッパへと広がり、
大正時代に逆輸入されたのが、
「ホンアジサイ(手鞠咲き)」や
「ハイドランジア」などの
西洋アジサイの品種です。
とくに現在、
日本国内で多く見られるのは
「ハイドランジア」という品種。
ただ、アジサイの学名は
シーボルトが命名する以前に
「ハイドランジア・マクロフィラ」
という名前で発表されていたので
“オタクサ”の名前は
認められませんでした。
しかし、今も長崎では、
“おたくさ”という呼び名は
健在です。
さだまさしの「紫陽花の詩」という
長崎の街を叙景豊かに歌い上げる曲に
“おたくさ”
“オランダさんの置き忘れ”
という言葉が登場。
シーボルトが日本に残した
“お滝さん”と娘の“いね”への、
この上ない愛情を
感じさせてくれます。
外気に面した
マンションの廊下や
民家の軒下などの
ツバメの巣から聞こえる、
ヒナの“チチチチチ…”
という鳴き声に、
春から夏への変化を感じる季節です。
ところが、
七十二候の第十三候
「玄鳥至(つばめきたる)
/二十四節気「清明」初候」は
4月4日〜8日頃。
毎年ほぼ同じ時期に、
ツバメは台湾やマレーシア、
フィリピンなどの
東南アジアを中心に、
遠くはオーストラリアから
数千kmもの距離を飛んで
日本へと渡って来ます。
日照時間の長さを感知して
飛び立つ時期を知り、
毎年ほぼ同じ時期に飛び立つので、
長く続く海上では
太陽の位置によって
目的地の方向を把握。
日本の陸地が見えてくると
見覚えのある
山などの地形を確認しながら、
元の巣にたどり着くと
いわれています。
オスが最初に到着し、
元の巣を2日ほどで補修。
古巣がなければ
近くの空いた巣を探し、
空いた巣がなければ
元の巣に近い場所へ泥を運んで
乾かしながら時間をかけて
営巣することになり、
10日ほどかかるようです。
ツバメの巣は、
泥と枯れ草に唾液を混ぜたもので、
頑丈な土壁さながらの
強度があります。
日本に戻って来たツバメは
4月から6月にかけて卵を産み、
メスが卵を温める抱卵期間は
2週間ほど。
孵ったヒナは
親鳥が運んでくる餌を食べて
3週間ほどで親と同じ大きさに成長し、
飛ぶ練習を始めます。
春先に来たツバメは、
巣作りや繁殖、抱卵に忙しく、
それほど目にする機会はありません。
しかし、ヒナが孵って以降、
ヒナ鳥の喧しい鳴き声を耳にし、
餌を捕るために飛ぶ親鳥の姿を
頻繁に見かけることもあり、
ツバメというと“夏鳥”という
強い印象につながっているのかも
知れません。
ツバメは
スズメ目ツバメ科に分類されますが、
ツバメとスズメとでは、
生態は大きく異なります。
まず、
ツバメは渡り鳥、
スズメは人の生活圏で共存する鳥
という違いです。
また、
ツバメの主食はハエや蚊、
アブ、羽アリなどの昆虫類で、
肉食中心の食生活を送ります。
スズメは米などの穀類や種子、
イモムシなどの昆虫、花の蜜、
パンや菓子屑、時には生ゴミなど
雑食です。
この食の生態により、
米の生育を阻害する
害虫を食べるツバメは
益鳥として農家に親しまれ、
逆に米を啄むスズメは
害鳥として疎んじられてきました。
飛び方も異なり、
ツバメは羽ばたきよりも
直線的に飛ぶ滑翔
(グライディング)が中心で、
歩くことはほとんど見かけません。
一方、スズメは、
羽ばたきながら直線的に飛行し、
地上でも両足でホッピングしながら
素早く移動する姿をよく見かけます。
これから夏に向け、
ツバメが大空を飛び回る姿を
頻繁に見かける時期です。
七十二候の第四十五候
「玄鳥去(つばめさる)
/二十四節気「白露」末候」の
9月17日〜21日頃、
暖かい南の地域へと
ツバメが戻り始めるまで、
その愛らしい姿に
しばらく癒やされたいものです。
今から約170年前、
日本は近代化に向け
大きな転換期を迎えました。
徳川幕府末期の「幕末」です。
「幕末」の期間は
明確に定義されていませんが、
一般的には、
ペリー率いる黒船が
浦賀沖に来航した1853年 (嘉永6年)を
「幕末」の始まりとし、
新政府軍と旧幕府軍が戦った
1868年(慶応4年)の“戊辰戦争”を
「幕末」の終わりとする
考え方が多いようです。
それ以外にも、
徳川最後の将軍・慶喜が
“大政奉還”を行なった
1867年(慶応3年)、
もしくは翌1868年(慶応4年)の
“江戸開城”を
幕末の終焉と見なすこともあります。
いずれにせよ、
わずか15年ほどの間に、
ちょんまげに帯刀、
着物が中心だった日本が、
海外の列強国と対峙する近代国家へと
大きく変わるきっかけとなりました。
時として起こる大きな時代のうねりは
かつて経験したこともない
新しい時代へと
導いているかのようです。
さて、「幕末」ですが、
30代40代の若者が、
それぞれが思い描く
“志”や“しがらみ”に
突き動かされるように戦い、
そして夢半ばに散っていきました。
そんな動乱の「幕末」を駆け抜けた
多くの若者の中のひとりに
「土方歳三」がいます。
「土方歳三」は、
1835年(天保6年)
武蔵国多摩郡石田村(現東京日野市)
に生まれた10人兄弟の末っ子。
14歳から24歳まで
東京上野の呉服商で奉公し、その後、
実家秘伝の“石田散薬”の行商で
生計を立てるかたわら、
行商で訪れた地の剣術道場で
修行を重ねました。
姉の嫁ぎ先の天然理心流の道場で、
後の新選組局長となる
近藤勇と出会います。
そして1863年(文久3年)3月、
近藤勇らとともに
徳川14代将軍家茂警護の
壬生浪士組に応募し、京都へ。
同年8月、壬生浪士隊は
“新選組”として正式に発足。
9月には
局内で幅を利かせていた新見錦切腹、
芹沢鴨の暗殺を経て、
10月に近藤勇局長の新体制が築かれ、
副長「土方歳三」が誕生しました。
この一連の流れは、
歴史的に厚みのある史実で、
ドラマや映画では
かなりの時間をとって描かれますが、
実際には約半年の出来事です。
その後、京都の町を舞台に、
土佐の坂本龍馬や
長州藩の攘夷派志士との
戦いを繰り広げ、
町民からも、
“壬生浪”と恐れられる存在に。
攘夷派志士の鎮圧を行った
“池田屋事件”や“禁門の変”
の働きで知名度を高める一方、
規律を守らせる鉄の掟ともいえる
“局中法度”を定めたのは、
他ならぬ局内の実権を握っていた
副長「土方歳三」でした。
敵味方が入り混じり、
混迷を極めた覇権争いは、
1867年(慶応3年)に
徳川最後の将軍・慶喜が
大政奉還を行った後、
旧幕府軍は戊辰戦争の
鳥羽・伏見の戦いで敗北。
“新選組”から離反する隊士も多く、
事実上“新選組”は解散の憂き目に。
「土方歳三」をはじめとする残党は、
旧幕府軍の榎本武揚らとともに行動し
函館・五稜郭に入城。
1869年(明治2年)、
「土方歳三」は、
新政府軍の軍隊に孤軍の戦いを挑み、
34歳の生涯を閉じました。
最初に故郷を出てから
わずか5年の歳月。
今年の5月31日(新暦)、
「土方歳三」188歳の誕生日が、
また巡ってきます。
お客様各位
平素は格別のご愛顧賜りまして深く御礼申し上げます。
2023年5月31日(水)をもって、弊社が配送業務を委託しておりますヤマト運輸株式会社において「宅急便 転居転送サービス」が終了いたします。
詳細はヤマト運輸様のホームページをご確認ください。
https://www.yamato-hd.co.jp/important/info_230417_2.html
2023年6月1日(木)以降、商品をご注文時のお届け先でお受け取り出来ない場合、送り状に記載されたお届け先から変更後のお届け先までの配送料を別途お支払いいただくことになります。
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転送時にかかる費用に関しましては、直接ヤマト運輸様にお問い合わせいただきますようお願いいたします。