「春の七草」を入れた“七草粥”。胃腸にやさしく、栄養価も抜群。

厳寒期の栄養補給に、栄養バランスにすぐれた“七草粥”を。

1月7日の
“人日(じんじつ)の節句”に
「春の七草」を入れた
“七草粥(ななくさがゆ)”を
食べるのは、平安の昔から
続く風習のひとつです。

現代においては、
節分や桃の節句のような
派手さはありませんが、
根強く残っている行事ともいえます。

「春の七草」は、
セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、
ホトケノザ、スズナ、スズシロの
7種類の野草、野菜を指し、
邪気を払い、無病息災や
健康長寿を祝って食べます。

とくにこれらの野草は
縁起物として重宝されました。

セリは“競り勝つ”、
ナズナは“なでて穢れを払う”、
ゴギョウは漢字で“御形”と書き
“仏体”を表します。

ハコベラは“繁栄がはびこる”、
ホトケノザは漢字で“仏の座”、
スズナはカブのことで、
その形から“神を呼ぶ鈴”、
スズシロも大根の別称で
“汚れのない純白さ”を表すなど、
それぞれが縁起物とされています。

また、正月に
おせち料理などをたくさん食べて
疲れた胃腸を休ませるために、
消化の良い“粥”に、
冬場の野原に生えている
栄養価の高い野草を入れるという
理にかなった意味もあるようです。

例えば、セリひとつとっても、
緑黄色野菜の基準値を
大きく超える抗酸化作用を促す
βカロテンをはじめ、
風邪を予防するビタミンA、
疲労回復に効果のある
ビタミンB群や免疫力を高めて
肌の潤いを保つビタミンC、
カリウム、鉄分、ミネラルを
豊富に含んでいるため、
貧血予防の効果など、
野菜の収穫が見込めない
冬場の栄養補給にはもってこい。

こうしたさまざまな効能が
期待できる野草が7種類も入り、
胃への負担が少ない“粥”で摂取。

手軽に栄養を摂取できることを
昔の人は生活の知恵として理解し、
行事化していました。

旧暦の1月7日は、
新暦だと2月7日頃の季節感覚で、
もっとも厳しい寒さに
見舞われる時期。

閉ざされた冬の
厳寒期の栄養確保が
いかに大変だったのかが
伺い知れます。

自然に囲まれて
暮らしていた昔と違って、
現代社会において自生する
「七草」を手に入れるのは
かなり困難なお話です。

正月三が日を過ぎた辺りから
スーパーなどで、
農家が栽培した野草7種を
パック詰めにした
“七草粥セット”が
売られているので、
それを購入するのがオススメです。

年末年始の暴飲暴食で疲れた身体を、
やさしい味わい、口当たりの
“七草粥”で整えてください。

古代中国の風習と日本の“若菜摘み”が結びついて生まれたのが“七草粥”です。

さて、“七草粥”の歴史を
紐解いてみましょう。

古代中国の唐の時代。

1月7日の“人日の節句”に
“七種菜羹(ななしゅさいのかん)”
という7種類の野菜を入れた
汁物を食べて無病息災を
願った風習が奈良時代に
日本に伝わったことがその由来です。

日本ではその頃、
厳寒期に芽を出す若菜を
とても貴重な冬の栄養源として
“若菜摘み”を行っていました。

この“若菜摘み”と“七種菜羹”が
結びついたものが日本の“七草粥”。

平安時代の醍醐天皇のときに
宮中行事となり、七種の野草を
“粥”に入れて食しました。

当時、七種の野草は定まっておらず、
七種と書いて“ななくさ”と
読まれることも多く、
縁起の良い“七”を付することに
意味があったようです。

現在の“七草”に定まったのは、
室町時代に編纂された
「河海抄(かかいしょう)」に
“芹、なづな、御行、はくべら、
仏座、すずな、すずしろ、
これぞ七種”と記載されたのが
初見とされています。

江戸時代になって
武家社会に広く受け入れられ、
やがて庶民にも広まっていきました。

幕府では
“人日の節句に七草粥を食べる”
ことを公式行事に定め、
将軍以下多くの武士たちが、
この日に“七草粥”を食べる儀礼を
行なったとされています。

科学的な裏付けがない時代。

武家は年末年始の
暴飲暴食の対策として胃腸を休め、
庶民は冬場の数少ない栄養源として…
現代にまで連綿と続いている
先人たちの生活の知恵や工夫には、
頭が下がる思いがします。

多様化する「おせち料理」市場。皮肉にも新型コロナ禍で、さらに進化。

ネット環境の充実が導いた「おせち料理」市場の拡大。まだまだ続きそうです。

毎年、秋頃から
「おせち料理」商戦は
スタートします。

「おせち料理」の市場規模ですが、
一説では約718億円という
試算があります
(東京・富士経済調べ/2021年)。

平均単価を約10,000円とした場合、
718万セットになる計算。

独身世帯も含めた
一般世帯総数4885万世帯なので、
約7軒に1軒は、「おせち料理」を
購入していることになり、
この試算の数値は
妥当なものだと納得がいきます。

また、新型コロナ前と比べると、
「おせち料理」の市場規模は
増加傾向にあります。

これは、新型コロナ禍による
密を避けるための外出自粛
というのが大きな要因
ともいえるでしょう。

この2年間は、
年末年始の海外旅行や
国内の温泉旅行、
実家への帰省はもちろん、
外食すらままならない
全国的な巣ごもり状態に。

これらにあてていた
予算を使えることで、
料理の匠プロデュースに
よるものや伊勢エビ、
キャビアなど高価な食材を
ふんだんに使った
高級志向の「おせち料理」を
選ばれる方も多かったとか。

また、「おせち料理」市場は、
新型コロナ以前から、
拡大傾向にありました。

SNSをはじめとする
ネット環境の急速な進化によって、
販売業者はネットを通じて、
個別に「おせち料理」の
情報発信が行え、またスマホで
気軽に注文できるように。

こうした背景を受けて、
全国津々浦々にまで
物流ネットワークが
整えられていたことも
「おせち料理」市場拡大に
大きく貢献したといっても
過言ではありません。

その昔、百貨店の
地下食料品売り場や仕出し屋、
市場の総菜店で、
重箱に詰める惣菜単品を
いくつか購入する程度だったものが、
現在では、「おせち料理」の食材が
彩り豊かに並べられ、
購入した重箱を模したトレーのまま
食卓に…という時代。

「おせち料理」の販売も、
百貨店やスーパーはもちろんのこと、
老舗ホテル、老舗旅館、コンビニ、
弁当チェーン、老舗料亭、
レストランチェーン、
テレビショッピングなど、
さまざまな業種が参入し、
実店舗だけでなく、
ネット通販などでも気軽に
購入できるようになりました。

販売競合が増えたことへの
対策として、より早い
顧客確保を狙った
早期予約割引特典の
設定などにより、
「おせち料理」の
予約開始時期も
年々早くなっています。

また、
ふるさと納税の返礼品や
郵便局のネットショップ、
鮮度を保った冷凍おせちなど、
新しいスタイルの
「おせち料理」も登場。

皮肉にも新型コロナの自粛で
急速に拡大した
「おせち料理」市場ですが、
新型コロナ自粛がない
2023年(令和4年)の市場動向が
どうなるのか、注目されています。

起源は古いが、「おせち料理」と呼ばれるようになったのは、戦後になってから。

さて、
「おせち料理」の起源は
弥生時代にまで遡ります。

古代中国からもたらされた
暦の季節の変わり目である
“節”に由来します。

収穫した作物を神様に
お供えする“節供(せちく)”という
風習が始まりとされています。

それが定着したのは
奈良から平安にかけての時代で、
邪気を払い、不老長寿を願う
宮中行事として、五節句を祝う
“節会(せちえ)”が執り行われ、
“御節供(おせちく)”
と呼ばれるお祝い料理が
振る舞われたといいます。

このときの五節句は、
現在のものとは異なり、
元旦(1月1日)、
白馬(あおうま/1月7日)、
踏歌(とうか/1月16日)、
端午(たんご/5月5日)、
豊明(とよのあかり
/11月新嘗祭翌日の辰の日)
を指しています。

時代は移り、江戸に。

五節句は現在の人日(1月7日)、
上巳(3月3日)、端午(5月5日)、
七夕(7月7日)、重陽(9月9日)
へと変わり、新年を迎える
もっとも大切な人日の料理が、
いつしか料理の一つひとつに
意味が込められた
“正月料理”として
定着していきました。

また、重箱に詰める様式が
確立したのは江戸末期から
明治にかけてのこと。

意外にも、「おせち料理」と
呼ばれるようになったのは
第二次世界大戦以降のこと。

それまでは、
“食積(くいつみ) ”や
“蓬莱(ほうらい)”と
呼ばれていました。

終戦後にデパートで重箱入りの
“正月料理”を「おせち料理」
という名前で売り出したことが
キッカケで「おせち料理」という
名前が全国に広まったようです。

もともとは、
和風の「おせち料理」なのですが、
海鮮づくしや会席仕立て、
寿司膳、和洋中オードブル、
さらにはスイーツ重など、
「おせち料理」はどんどん美味しく、
多様化し続けています。

旨い酒と「おせち料理」で、
美味しい豊かな新年をお迎えください。

「冬至」には、柚子湯、かぼちゃ、“冷酒”で招福祈願を。

「冬至」の勘違い。そして、ひと足早く、ご来光の時間を知っておきましょう。

2022年は、
クリスマスの直前の12月22日が
二十四節気の「冬至」です。

「冬至」というと、
“1年で一番昼の時間が短く、
一番夜の時間が長い日”
ということで
一般的には知られています。

よく耳にするのが、
「冬至」は“日の出が一番遅く、
日の入りが一番早い日”
という勘違い。

今年の「冬至」を例にとって
考察してみましょう。

まず「冬至」の日、
東京エリアの日の出は
6時48分(大阪は7時1分)で、
日没は16時32分(大阪は16時51分)
と発表されています。

1年で一番
日の入りが早いのは12月6日。

二十四節気の「冬至」の2つ前の
「小雪(しょうせつ)」最終日で、
翌日が「大雪(だいせつ)」の日です。

東京エリアの日没は
16時28分(大阪は16時47分)で、
「冬至」より約4分早く日が暮れます。

一方、
1年で一番日の出が遅いのは、
年が明けた1月7日で、
二十四節気の「冬至」の次にあたる
「小寒(しょうかん)」になってからで
東京エリアの日の出は6時52分
(大阪は7時6分)。

つまり、12月6日をピークに
日没時間は遅くなり始めますが、
日の出時間は
「冬至」を過ぎても遅くなり続け、
翌年1月7日を境に日の出が早くなり、
日の入り、日の出時間から割り出した
昼の時間がもっとも短いのが
「冬至」ということです。

せっかくなので、
9日後に迫った
初日の出の時間について
ご紹介しておきます。

日の出の時間には
緯度と経度が深く関係しており、
地軸が傾いているので
季節によっても異なります。

1月は、
“同じ緯度なら東の方が早い”
“同じ経度なら緯度が低い方が早い”
という日の出の時期。

つまり、
南東の方が早く夜が明ける
ということになります。

北海道の東端である
納沙布岬の日の出は
6時49分ですが、
経度が“約5°”西に位置する
千葉県の犬吠埼は緯度が低いため、
6時46分と、
わずかに早く夜が明けます。

ちなみに
北海道、本州、四国、九州の
“平地”で一番早く
ご来光が拝めるのが、
この犬吠埼です。

さらに、深く関係するのが標高。

これは、地球が球体なので、
高いところほど
日の出が早く見える
ということです。

千葉県鴨川市の
標高337mの清澄山山頂からは
6時44分、
清澄山から西に約75kmの
東京スカイツリー天望デッキ
(地上350m)からだと6時46分に
ご来光が拝めるそうです。

あとは、
元旦の晴れわたった空を願うばかり。

「冬至」に“柚子湯に浸かる”“かぼちゃを食べる”のには、ちゃんとした理由が。

「冬至冬中冬始め」
という言葉があります。

これは、
“暦の上では、
冬至は冬の真ん中にあたるけれど、
実際には、
本格的な冬の厳しい寒さの
始まりを告げる日”
ということを
言い表した言葉です。

古来、「冬至」の特徴でもある、
1年で一番夜が長いということは、
信仰の対象で生命の象徴ともされる
“太陽”の力がもっとも弱くなる日で
死にもっとも近い日
と考えられていました。

しかし、この「冬至」を境に
昼夜の時間が一転する
折り返しの節目の日ともされ、
“一陽来復(いちようらいふく)”
という、
良くないことが続いた後に
良いことが巡ってくる日
とも考えられていたようです。

また、
福に転じるみそぎの意味を持って
浸かったのが“冬至風呂”で、
今でいう“柚子湯”。

柚子にはビタミンCが多く含まれ、
柚子の香りにはリラックス効果、
そして温まることで
血行促進の期待も高まります。

“柚子湯”は
江戸の風呂屋がはじめた習慣で、
「冬至」は“湯治”、
「柚子」は“融通が利く”
というシャレの効いた触れ込みが
江戸っ子に人気だったとのこと。

また、風呂を上がったら、
“かぼちゃを食べる”のが
「冬至」のしきたり。

農作物がとれない冬場に保存が利く
“かぼちゃ”は
栄養価の高い食材でした。

免疫効果の高いカロテンや
内臓を守るビタミンB群、
身体の塩分の排泄を促すカリウム、
整腸作用に効果の高い食物繊維など、
長年にわたる生活の知恵として
“かぼちゃ”は重宝されました。

これ以外にも、
“と”や“ん”のつく
食べ物を食べるのが良いとされ、
唐辛子や豆腐、みかん、
こんにゃく、れんこんなど、
身体を芯から温める作用のある
食べ物を摂って風邪や冷え対策を
行っていたといいます。

寒い時期ですが、「冬至」に
“冷酒”を飲む風習もあったとのこと

そこには、
“冷酒”で身体を清めるとともに、
風邪を引かない身体を願った
という理由があるそうです。

そういえば、
日本酒にも“ん”がついています。

今年の「冬至」は、
キリッと冷やした旨い日本酒で、
1年の垢をスッキリと落として、
映えある新年をお迎えください。

「しめ縄」と「しめ飾り」は、似て非なる役割を持ちます。

「しめ縄」の起源は、あの有名な天の岩戸の神話から。

年内にしておく正月準備のひとつに
「しめ飾り」があります。
「しめ飾り」は、門松や鏡餅と同じく
お正月に年神様をお迎えする
「正月飾り」のひとつで、
「しめ縄」を縁起物で
飾り付けたものが「しめ飾り」です。

この「しめ縄」の起源は、
神話の時代へと遡ります。

古事記に、
次のお話が記されています。

“太陽の象徴である天照大神
(あまてらすおおみかみ)は、
弟である須佐之男命
(すさのおのみこと)の日頃の
粗暴な振る舞いに怒り、
天岩戸に引き篭もってしまい、
太陽が隠れたことで、世の中は
暗闇に包まれてしまいました。

困った八百万の神は天照大神を
岩屋から連れ出すために、
岩戸の前で宴を開き、
酒を酌み交わし、踊り、
大騒ぎの毎日。

世の中は闇に包まれているはずなのに
なぜ騒がしいのかと顔をのぞかせた
天照大神を岩戸から連れ出して、
再び隠れないように、
岩戸を縛ったのが
「しめ縄」でした”と。

このお話が伝わって以降、
「しめ縄」は、神の領域と現世を隔て
神様の領域を守る結界として
認識されるようになりました。

そういう意味で、「しめ縄」は
神様が宿る場所として、
1年を通して神棚に飾るものなのです。

また、神社などでも「しめ縄」は、
通年を通して神様の通り道に
飾られています。

日本国内最大クラスを誇るのが、
島根県の「出雲大社神楽殿」の
全長13.6m、重量5.2tの
「大しめ縄」です。
茨城県の「常陸国出雲大社」や
福岡県の「宮地獄神社」の
「大しめ縄」も引けを取らない
大きさを誇っています。

この三社の「大しめ縄」は、
全国でもずば抜けて大きく、
その丁寧な仕事ぶりは
芸術作品のようで、甲乙付け難い
荘厳な佇まいが魅力です。

八百万の神が集まるとされる
島根県の「出雲大社」では、
この「大しめ縄」が
数年ごとに架け替えられます。

その制作を担うのは、
出雲大社から南下すること約30kmに
位置する飯南町(いいなんちょう)。

1年以上もの歳月をかけて、
のべ1000人以上もの町民の手に
よってつくられ、奉納されます。

材料となる稲藁は色艶が美しく
背丈の高い品種で、
「大しめ縄」用に特別、
稲穂が実る前の
青々とした状態で収穫。

代々受け継がれる独自の技術で
藁をしっかりと束ねる地道な
手作業の繰り返し。

その藁束を重ねて固く締めながら
徐々に太くし、菰に包み込んで、
直径1mを超える大縄が仕上がります。

また、「大しめ縄」に取り付ける
飾りとなる円錐形の
“〆の子(しめのこ)”や、
“大しめ縄”を支える“吊り木”も
強度に優れた樹齢150年以上の
ヒノキを切り出します。

これらのほとんどが
手作業というから驚きです。

ここ「出雲大社」だけでなく、
他の社でも同じような
手作業によって「大しめ縄」が
つくられているのです。

「しめ飾り」を飾るタイミング、ご存知ですか。

一方、「しめ飾り」は、
正月に年神様を迎え入れる場所に
願いを込めて飾るもので、
年神様をお迎えする玄関に
飾るのが一般的です。

「しめ飾り」に飾られた縁起物には、
それぞれ意味があります。

大きく左右に広がっている
“裏白(うらじろ)”は、
二つの葉が夫婦円満の意味を持ち、
葉の裏が白いことから
清らかな心を表現。

“ゆずり葉”は、新しい葉が
伸びてくると古い葉が黄色くなって
落葉する様から、次の世代に
譲ることを連想させます。

“橙(だいだい)”は、
一度実ると何年も落ちずに、
ひとつの木に何代にもわたる
橙の実が生ることから、
一族の代々繁栄を表します。

“紙垂(しで)”は、
折り重ねられた白い紙のことで、
神聖な場所を区切る意味を持ちます。

さて、「しめ飾り」を
飾るタイミングですが、12月13日の
“正月事始め”以降であれば、
いつ飾っても問題はありませんが、
クリスマスを過ぎたあたりから
飾るご家庭が多いようです。

とくに、末広がりの
“八”が入っている12月28日は
縁起が良い日とされます。

12月29日は、二重苦につながり、
葬式と同じ一夜飾りになる
12月31日に飾るのは
避けた方がいいようです。

「しめ飾り」をはじめとする
「正月飾り」は松の内
(関東、東北、九州は1月7日/
関西は1月15日)明けた後、
神社に奉納して処分。

多くの神社では、
どんどん焼きや左義長と呼ばれる
火祭りを行なっているので、
そこでお焚き上げを
してもらいましょう。

ゴミとして処分する場合は、
塩やお酒で清めた後、
半紙で包むなどして、
他のゴミと袋を分けて
処分してください。

年末も押し迫った頃に慌てて
「しめ飾り」を買うという
ご家庭も多いかと思います。

本来の年神様をお招きする
目印であるという「しめ飾り」の
本来の役割を心に刻んで、
選んでみてはいかがでしょうか。
来年こそ、
大きな福が舞い込むかもしれません。

「正月事始め」の主行事が“煤払い”。東西両本願寺の“煤払い”は圧巻です。

年末恒例の“煤払い”は、長年続く伝統行事。

年末のニュースで、
京都の東本願寺、西本願寺の
“煤払い(すすはらい)”
の様子が流れてくると、
“もうそんな時期か”と、
年の瀬を実感。

というのも、
新しい年まであとわずかとなり、
僧侶達が掃除をしている姿を見て、
大掃除をしなくてはという思いに
なる方も少なくないようです。

東本願寺、西本願寺の
“煤払い”の歴史は古く、
室町時代の浄土真宗中興の祖とも
称される蓮如の頃から
500年余り続く伝統の行事です。

戦国時代、蓮如によって
建立された石山本願寺は
難攻不落の砦とされていましたが、
織田信長によって10年以上
攻め続けられ、和睦か、そのまま
戦うかの議論が対立を生み、
宗派内は完全に分裂状態に。

信長の死後、
秀吉側の西本願寺と
家康側の東本願寺
(正式名称は真宗本廟)が誕生し、
江戸時代の前半頃までは
断絶状態が続きました。

ところが、江戸後期になって
歩み寄りが行われ、現在では、
東西の本願寺は真宗教団連合
という組織で活動する良好な関係が
築かれています。

その両本願寺の広い本堂を
僧侶や門徒たちが行う
“煤払い”ですが、東西で
開始時間やその作法は異なります。

毎年12月20日の午前7時頃に
西本願寺の“煤払い”がスタート。

数百畳もある本堂の畳を、
500人以上もの人によって、
中央から外側に向かって
竹の棒で叩き、
舞った埃を大きなうちわで
外に掃き出していきます。

それから遅れること約2時間、
午前9時頃から東本願寺の
“煤払い”がスタート。

こちらでは、僧侶や門徒たちが
横一列にまっすぐに並び、
端から順に竹の棒と
大きなうちわを持ち、
一斉に畳を叩いて
埃を掃き出します。

西本願寺から東に約1km
(実際には、南下して
七条堀川交差点を左折し、
まっすぐ進んだ後、
烏丸七条交差点を北上)、
徒歩約15分に位置するのが
東本願寺なので、
西本願寺と東本願寺の
“煤払い”を続けて見学する
時間的な余裕は十分にあります。

今の生活では部屋に
煤が溜まることはありませんが、
昔は炊事のときに薪を使い、
照明にろうそくや
行灯を使っていたので、
家の中は煤で汚れていました。

そのため、天井や壁に
煤が溜まりました。

また、神社仏閣などでも、
本堂や本殿でろうそくに火を灯し、
線香を焚くので煤は溜まり、
埃と一緒になった煤汚れを
年末に掃除をするのが
“煤払い”です。

これは、ただ単に
汚れを落とすというだけでなく、
新しい年に福を授けにお越しになる
“年神様”をお迎えするために、
1年の穢れを落として家の中を
清める意味を持っています。

余談ですが、
この煤けて黒くなった
埃の塊を長年放置すると、
精霊を宿した付喪神(つくもがみ)の
“煤わたり”になる
という言い伝えが。

これをモチーフにしたキャラクターが、
人気アニメ「となりのトトロ」の
“まっくろくろすけ”であり、
「千と千尋の神隠し」の
釜爺(かまじい)の下働きで
炭を運ぶ“煤わたり”なのです。

12月13日が暦の上での「正月事始め」ですが、“煤払い”の日付はさまざま。

この“煤払い”と
“松迎え”の行事を行うのが、
「正月事始め」です。

年の暮れに「事始め」を行うのは、
“事”である正月祭事に向けた
準備を“始める”という
意味からきています。

“松迎え”は、“年神様”を
お迎えするための門松にする松、
おせち料理やお雑煮をつくるために
使う薪(たきぎ)を
山に刈りに行く行事です。

この「正月事始め」の日以降、
新年に向けた準備が
始まる日とされます。

「正月事始め」は
旧暦12月13日に行われていたものが、
新暦になってもその日付のままで
行われている風習で、
“煤払い”がこの日の主となる行事。

また、京都祇園の舞妓さんなど、
古いしきたりの業界などでは
年納めの挨拶回りをする大切な日です。

神奈川県の鶴岡八幡宮や
小田原城をはじめ、
全国の数多くの寺社仏閣などでは、
年中行事として12月13日に
「正月事始め」の
“煤払い”を行ないます。

「正月事始め」の起源は古く、
“事八日(ことようか)”という
古の風習の12月8日を正月に向けた
“事始め”としていた習わしを元に、
江戸時代になって以降、12月20日を
「正月事始め」の日と定め、
江戸城の大掃除を行なっていました。

ところが、三代将軍の家光が
12月20日に亡くなったことで、
その命日を避ける意味で、
婚礼以外は吉という
“鬼宿日”である12月13日に。

冒頭で紹介した
歴史のある両本願寺などは、
その長い伝統を続ける意味で、
12月20日に“煤払い”が
行われているようです。

“煤払い”は
“大掃除”に名を変え、
1年の穢れを拭い去って
新しい年を迎えるという考え方が、
いまなお受け継がれています。

普段の掃除では行き届いていない
部屋の隅や棚の奥など、
今年はキレイに掃除をすることで、
気持ち良く縁起の良い
新年を迎えましょう。