静かな哀愁が漂う「おわら風の盆」。小さな町に約25万人もの観客が集います。

最近人気が沸騰していると噂の「おわら風の盆」。

以前にこのコラムで
紹介しましたが、
“日本三大盆踊り”は、
秋田の「西馬音内の盆踊り」、
岐阜の「郡上踊り」、
徳島の「阿波踊り」
というのが定説。

また、
“日本三大民謡踊り”
というのもあって、
「郡上踊り」、「阿波踊り」に
山形の「花笠踊り」が加わる
というのが一般的です。

しかし、
地域観光課や旅行会社などが
“日本三大…”を謳う場合に、
「郡上踊り」、「阿波踊り」は
そのまま残して、あとひとつに
“おらが県の〇〇踊り”を
加えることも少なくありません。

というのも、
そもそも“日本三大…”の
明確な定義はなく、
農閑期となるこの時期、
歴史的、規模的に、
同じサイズ感のお祭り行事が
全国的に点在しているからです。

ということであれば、
観光誘致の話題として
地元の祭りを推したい気持ちも
分からなくはありません。


「日本の祭り」はここを見る」
という本によると、
“日本三大盆踊り”の紹介の追記で、
“最近、富山の「越中おわら風の盆」
の人気が沸騰している”と
書き綴られています。

「越中おわら風の盆」とは、
富山県越中八尾町(やつおまち)で
行われている夏のお祭り行事です。

ではなぜ、富山の
「越中おわら風の盆」の人気が
沸騰しているのかというと、
ここでしか味わえない特徴が
魅力となっているといえます。

花火が打ち上げられたり、
縁日の屋台が軒を並べたりする、
賑やかで開放的な
夏のお祭りとは対照的に、
「越中おわら風の盆」は、
もの静かな哀愁が漂う
雰囲気のお祭り。

夏の暑さに疲れた心身を
リラックスさせてくれるかのように、
その静寂感が醸し出す
独特の空気感が町全体に漂います。

この静かにゆったりと
時が流れる感覚が、
ほどよい癒しを与えてくれ、
それが大きな魅力を
担っていることは
間違いのない事実。

小さな町に、全国から
毎年約25万人以上もの見物客が
訪れることからも、その人気を
押しはかることができます。

約300年もの歴史を刻む静かなお祭り「おわら風の盆」で、癒しを体感。

「越中おわら風の盆」は、
富山市街地から約10数km
南下した山間の坂の町、
八尾町(やつおまち)で、
毎年9月1日から3日に
開催されるお祭りです。

その歴史は古く、
江戸中期の1700年(元禄時代)頃から
約300年も続く伝統的なお祭り行事。

祭りが開催される二百十日前後は
台風が日本列島を
通過する時期にもあたり、
昔から収穫前の稲に
台風被害が及ばないことを願う
豊作祈願の風鎮祭を“風の盆”と
呼んだようです。

また、種蒔き盆、雨降り盆など、
休みのことを“盆日(ぼん)”と
呼んだことも、その由来に
関係するという説もあります。


八尾町は、昔を彷彿とさせる
伝統的な格子戸のある旅籠宿や
土蔵造りの民家が
坂道に沿って立ち並び、
風情のある宿場町のような
雰囲気の街並みが特徴。

その建物の軒下に
道に沿って連なる
数千本ものぼんぼりには、
日が暮れるとともにあかりが灯り、
幻想的な光景を醸し出します。

とくに、
「越中おわら風の盆」が
開催されるときなど、
踊りの流れを誘導するかのような
錯覚に陥ります。

「越中おわら風の盆」では
“地方(じかた)”と呼ばれる
楽器と唄の役割があります。

楽器は、探り弾きという演奏法で
やや重い旋律を奏でる“三味線”、
哀愁が漂う音色が特徴の“胡弓”、
軽めのリズムを刻む“太鼓”。

そこに、“お囃子”に
誘い出されるかのように
甲高い声の“唄い手”が加わって
全体の調和を取りながら
練り歩きます。

そして、その“音”に
反応するかのように、
豊年を祈る“豊年踊り(旧踊り)”と、
四季踊りと呼ばれる
躍動的な“男踊り”、
たおやかで艶やかな“女踊り”が
繰り広げられます。

男女ともに顔を隠すように
“おけさ笠”を深く被るのが
印象的です。


観客は、これらの長年にわたって
培われた唄や楽器、踊りを静かに
見守るかのように観覧するのが
「越中おわら風の盆」の
楽しみ方なのです。

「越中おわら風の盆」を
一躍有名にしたのは、
1985年(昭和60年)に
直木賞作家の高橋治が発表した
「風の盆恋歌」辺りから。

この原作を元に、
テレビドラマ、舞台、コミカライズ、
そして石川さゆりの同名曲など、
幅広い分野に波及していきました。

静かなお祭りという特徴は、
心に響く深い物語を紡ぐのに
格好の題材なのかも知れません。

観光目的というより、
地元に根付いた文化を
継承しているのが
「越中おわら風の盆」。

夕方辺りから涼しくなる
この時期だからこそ、
一風変わったお祭りに
参加してみるのも、
一興でしょうか。

誰もが持っている小学校時代の「朝顔」の記憶。

失敗の少ない「朝顔」栽培。種蒔きから約2カ月で、
キレイな花を拝めます。

夏が始まる前に種を蒔き、
それぞれが大きく育てた「朝顔」を
1学期の終業式の日に家に持ち帰る…
小学校低学年の頃の
懐かしい思い出として、
みなさんの遠い記憶に
刻まれていませんか。

もしかすると持ち帰らずに
日当たりの良い校舎周辺に
おいていたかも。

ではなぜ、「朝顔」なのでしょうか。

学習指導要領によると
“低学年の児童でも
栽培が容易なもので、
植物の成長の様子や特徴が
とらえやすく、
確かな実りを実感でき
満足感や成就感を得られるもの”
との記載はありますが、
「朝顔」と限定されている訳では
ありません。

数ある植物の中から、
なぜ「朝顔」が採用されることが
多いのかというと、
小学校低学年でも育てやすく、
短い期間で成長し、
見た目の変化が大きいという点が
挙げられます。

昔は理科の栽培実習として、
学習指導要領改正後は
生活科の授業で「朝顔」の栽培実習が
取り入れられているとのこと。

具体的には、
小学校1年生の
ゴールデンウイーク後の授業で
種を蒔きます。

「朝顔」は、
約2カ月で花を咲かせるので、
夏休みまでに成長の過程を
十分に観察できるのが特徴。

土と日光、水があれば簡単に育ち、
たとえ痩せた土でも追肥の必要がなく
学習用の鉢に
水を入れたペットボトルを
逆さまに挿しておけば
水分補給も容易というのも
採用される基準のひとつといえます。

ほぼ失敗しない初めての
植物栽培に適した教材のようです。

「朝顔」は
ツル性を持つ植物の代表格で、
種蒔き、発芽、葉の成長過程、
そして開花と、
約2カ月で一連の成長観察ができ、
夏休み時期に
家へと持ち帰ってからも
観察が続けられ、
種の収穫までの成長の流れを
見届けることができます。

さらに、観察に加え、絵日記、
花を摘んで押し花、
同じ色の花を集めて
色水をつくって絵を描いたり、
栽培後のツルを集めて
ひと足早い
クリスマスリースづくりなど、
捨てるところが少なく、
多様な自由研究にうってつけなのが
「朝顔」です。

また収穫した種を
翌年に植えるというのも、
命をつなげるという学習にも
なり得るようです。

ちなみに、「朝顔」の開花は、
日没後約10時間前後とのこと。

「朝顔」を植えて育てている方は、
一度確認してみるのも
面白いかも知れませんね。

最初の「朝顔」ブームは、江戸時代末期。

「朝顔」の原産は、
自生種があることから、
ヒマラヤ、ネパールから
中国にかけてのエリアや
熱帯アジアという諸説がありましたが
近年、そこに、
熱帯アメリカ大陸が原産地
との説が加わったとのことです。

日本に伝わったのは奈良時代末期。

当時、遣唐使が、
その種子を薬として持ち帰ったものが
日本に伝来した最初とされています。

ただ、遣唐使が
「朝顔」の種を持ち帰ったのが
平安時代とする説もあり、
その場合、
万葉集に出てくる「朝顔」は、
キキョウやムクゲのことを
指しているといわれています。

薬としての薬効は主に下剤で、
煮たり焼いたり炒ったりなど
熱を加えることで
その効能を発揮しますが、
毒性が強く素人判断の服用は
厳禁だったようです。

「朝顔」の葉を細かく刻んで揉み、
当時、便器に投入しておくと
虫が湧かないという使い方も
されていました。

日本に伝わった当初は、
漢名の「牽牛(けんぎゅう)」と
呼ばれ、
和名の「朝顔」が使われ始めたのは
平安時代からのこと。
古代中国において「朝顔」は、
牛と交換取引されるほど高価な薬。

現在も「朝顔」の種子は、
漢方の下剤や
利尿剤として利用されています。

時代は移り、
江戸時代は比較的平和な
時代だったこともあり、
「朝顔」も園芸で楽しむものとして
趣味の分野での
人気が高まっていました。

意外にも、1806年(文化3年)の
江戸の大火がキッカケとなって
「朝顔」ブームが起こります。

火事の跡地を更地にして、
「朝顔」を植えたところ、
それまで見たこともない
珍しい「朝顔」が咲いたことで
ブームが巻き起こりました。

子供の頃の「朝顔」栽培は、
懐かしい思い出として、
誰もが共有できる
共通認識のひとつです。

デジタルな疑似体験が増えた現在、
数少ない貴重な実体験ともいえます。

品種によっては、
この時期に種蒔きが可能な
「朝顔」もあるようです。

興味のある方は、
今年の「朝顔」栽培、
されてみてはいかがでしょうか。

意外にも、蝉の声を聞き分ける能力は、日本人独特という説。

日本の蝉の生態と海外の蝉事情。

6月末の猛暑日が連続した頃は、
茹だるような暑さなのに
まったく蝉の声が聞こえないという、
やや違和感を感じながら、
今年の夏はスタート。

そんな思いもつかの間のこと、
7月初旬辺りから蝉の声が
聞こえ始めました。
“チージー”と鳴く
ニイニイゼミの声に、
“シーシャンシャンシャンシャン、
ジー”というクマゼミの声が重なり、
夕方辺りに“カナカナカナ”と
ヒグラシの声。

そして、アブラゼミの“ジージージー”
の鳴き声に重なる
“ミーンミンミンミンミー”と
ミンミンゼミの大合唱が。

夏も半ば過ぎともなると、
昼間の蝉の大合唱の後、
ツクツクボウシの
“ジー ツクツクボーシ
ツクツクボーシ ゥイヨーゥイヨー
ジー”が夕方に聞こえ始め、
そして秋へと季節は
移り変わっていきます。


北から南へと細長い地形の日本なので
それぞれの地域の気候や生息環境、
地形の高低差によって、
蝉が鳴く時期は前後し、
種類も異なります。

東京都心にはミンミンゼミが多く、
西日本エリアでは
山間部でないと聞けません。

これとは逆に、
西日本の市街地に多いのは
クマゼミですが、
関東ではもともと少ない種類。

近年、温暖化の影響なのか、
クマゼミの分布が北上し、都内での
鳴き声の報告もあるようです。

蝉の声のピークは8月上旬。
何種類もの蝉の声が重なって
聞こえるのを季節感とみるか、
騒音ととらえるか、
意見の分かれるところです。


海外にも蝉はいます。
アジア圏は蝉が多く、
台湾には50以上もの種類が存在。

一方、ヨーロッパ圏には
蝉の種類は少なく、
ギリシャやイタリア、南フランス
辺りに生息していますが、
セミの鳴き声を音色ととらえ、
そこに情緒を感じるのは
日本特有の文化のようです。

欧米諸国には、
犬や猫の鳴き声を表したような
擬声語に蝉の声はなく、
“蝉の雑音(ノイズ)”
“蝉の羽音(バズ)”などと
大雑把に表現される扱い。

そんな中で、蝉の声を音色と
とらえた作品があったようです。

ギリシャ人のイソップの童話のひとつ
「アリとキリギリス」は、
もともと「アリとセミ」だったそうで
蝉を知らない国に
この物語が伝わる際に、
キリギリスに置き換えられ、
それが世界に広まったとされています。

イソップは、蝉が夏場に
音楽を奏でると
とらえていたのかも知れません。

また、アメリカでは、
蝉の声をやはり騒音と
とらえているようですが、
それ以上に、13年、17年に一度
大量発生する周期ゼミによって
街が覆い尽くされることの方が
問題のようです。

“立秋”の次項「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」は、
夏から秋への季節の境目。

テレビのニュースなどでよく耳にする
“暦の上では”という表現を使えば、
今は二十四節気の“立秋”で、
七十二候の“立秋”の次項
「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」
にあたります。

「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」とは、
夏の終わりを告げるかのように、
ヒグラシが鳴き始める頃のこと。

実際には、もう少し早い時期から、
日の出前や日没後の薄暗い時間帯に
ヒグラシは鳴き始めています。

ヒグラシの“カナカナカナ”
という声は、
他の蝉の大音量の鳴き声とは異なり、
どこか寂しく儚げな印象があり、
それと少し涼しくなる秋の気配を
重ね合わせたと推測されます。

これ以降、秋へと季節が近づき、
日中の気温が下がり始めると、
ヒグラシの声は日中でも
耳にするようになります。

その頃には残暑もやわらぎ、
やがて秋の虫の鳴き声にバトンタッチ
するかのようにヒグラシの鳴き声は
消えていきます。

そんな、夏の終わりを
感じさせてくれることから、
ヒグラシは
“寒蝉(かんせん)”とも呼ばれ、
暦に表記されているのでしょう。

蝉の声を聞き分ける能力は
日本人に備わった独特の能力
という説もあります。

断定はできませんが、
欧米人は蝉の声を、
街の喧騒と同じ雑音と
とらえているため、
脳内で音色として
認識できないらしいので、
あながち間違いではないようです。

お盆の“送り火”の「精霊流し」。
厳かなイメージとは、かなり異なります。

毎年、お盆は“迎え盆”に始まり、
“送り盆”で終わります。

前回に続いて…再び、お盆の話題。
お盆の時期は地域によって
やや異なります。

もともとの旧暦のお盆の期間は、
7月13日から16日でした。

明治初旬、旧暦から新暦に変わる際に
お盆期間は地域によって
大きく3つのパターンへと移行。

新暦採用に伴って、
そのままの日にちの
7月13日から16日を採用したのは、
一部を除いた東京都心部、
金沢の旧市街地、静岡市など。

“新のお盆”“東京盆”
とも呼ばれています。

“新のお盆”と呼ぶのは、
人が亡くなって49日の法要を終えて
初めて迎えるお盆の
“新盆(関西では“初盆”)”
と区別するため。

2つめのパターンは、
他の地域より1日短い、
旧暦7月13日から15日のまま
(2022年(令和4年)は
、8月10日から8月12日)
の沖縄、奄美エリア。

ちなみに、沖縄の伝統芸能の
エイサーは盆踊りのことです。

そして、それ以外の
ほぼ全国的なエリアでは、
新暦8月13日から16日。

旧暦の季節感を
そのまま受け継いだ“月遅れ”
を採用したもの。

“旧盆”“月遅れ盆”
と呼ばれています。

これには諸説ありますが、
農家が多かった当時の背景から、
梅雨が明け切っていない農繁期を
避ける意味で、
旧暦の季節感を選んだ地域が
多かったのかも知れません。

地域によって異なりますが
一般的なお盆は、
13日の“迎え盆”で始まります。

午前中にお墓参りを済ませ、
夕方頃に盆提灯にあかりを灯し、
玄関の軒先などで、
“迎え火”を焚いて
ご先祖様のお迎えを
(集合住宅などでは
盆提灯のみでも構わない)。

14、15日は“盆中日”。

13日にお墓参りができなかった方は、
この“盆中日”にお墓参りを。

本来のお寺さんの来訪は
この2日間なのですが、現在は
お盆前に来られることもあります。

そして、16日の“送り盆”に
ご先祖様をお送りするため、
夕方に“送り火”というのが
一般的なお盆のスケジュールです。

ちなみに、“お盆休み”は、
江戸時代、商家に勤めていた奉公人が
夏と冬に、実家に帰省するために
休みをもらった“藪入り”という
風習の名残。

夏の休みは、
旧暦7月16日に与えられました。

この日は、仏教の
“閻魔の賽日(地獄の獄卒)”
ともいわれ、地獄の釜の蓋が開いて、
地獄に堕ちた人や鬼が
責め苦から解放される日で、
それを取り締まる地獄の番人も
お休みとなる日なのです。

大きく異なるお盆行事の「灯籠流し」と「精霊流し」。

お盆の最終日の“送り盆”を
締めくくるのは、“送り火”です。

この“送り火”は、
“迎え火”とくらべると、
意外と壮大な夏のイベントとして、
暦に刻まれています。

京都の“五山の送り火”や
箱根の“強羅大文字焼き”、
終戦記念日に平和を祈念する意味を
含めた奈良の“大文字送り火”
などが有名です。

全国的に行われる「灯籠流し」も
“送り火”の意味を持つことが多く、
河川敷や海岸のお祭り、
花火大会と一緒に開催される
夏の風物詩のひとつ。

地域によっては、お盆よりも前に、
空襲の戦没者の慰霊の意味を持つ
「灯籠流し」が
行われることもあります。

一般的に「灯籠流し」は、
毎年お盆の終わりに行われる
その地域に伝わる風習で、
火を灯した灯籠を川や海に流し、
先祖の魂をあの世に送り戻す儀式です。

さて、この「灯籠流し」と
混同されがちなのが
「精霊流し(しょうろうながし)」。

さだまさしの楽曲が披露されたことで
一躍有名になりました。

この歌の物悲しいメロディーや
厳かで叙情的な歌詞を聴くと、
「精霊流し」に
「灯籠流し」と同じような
繊細なイメージをいだきます。

しかし、実際の「精霊流し」は
長崎エリアを中心に行われる
ローカル行事で、その雰囲気は、
「灯籠流し」とは、まったくの別物。

長崎の「精霊流し」は、
盆前に亡くなった遺族のために
船をつくり、盛大に極楽浄土へ
送り出す伝統行事なのです。

8月15日の夕方、
長崎市内の主要道路には
交通制限が掛かり、
路面電車も止めて、
「精霊流し」の流し場まで
大小さまざまな
遺影を乗せた精霊船が並びます。

移動中に遺族が鐘を鳴らし、
爆竹の音が街中に
響きわたるのですが、
とくに派手さを競うかのような
爆竹の音量は凄まじく、
当日は耳栓が売り切れるとまで
いわれています。

また精霊船の大きさもケタ違い。

全長10メートル以内と
決められるほど、こちらも競って
大きな船が集まります。

何より驚くのは
条例で海に流せないということ。

時間が来ると精霊船は重機で壊され、
粗大ゴミに。

そのゴミ処理に追われるため、
しばらくは粗大ゴミの持ち込みが
できなくなるようです。

思い描いていたのとは異なる
「精霊流し」。

故人への思いで、
悲しみに明け暮れることを考えると、
こういう賑やかな偲び方を望むのは、
他ならぬ故人なのかも知れません。

圧巻の「郡上おどり」は、日本三大盆踊りのひとつ。
機会があれば、ぜひ参加を。

お盆につきものの盆踊り。
祖先の御霊を供養するお盆の儀式のひとつです。

間もなくお盆です。お盆の正式な
名称は“盂蘭盆会(うらぼんえ)”で、
お盆の時期に、先祖の精霊を
お迎えして供養をする
行事のことをいいます。

“盂蘭盆会”は、もともと
古代インドのサンスクリット語の
“ウランバーナ”が語源とされ、
その意味は“逆さ吊り”。

お盆と全く関係ないような意味が
この行事と結びついた理由が
気になるところです。

お釈迦様の数多くいる弟子のなかでも、
とくに10人の偉大な弟子のひとりに
数えられる
“目連尊者(もくれんそんじゃ)”の
逸話が始まりとされています。

“目連尊者”には神通力が備わって
おり、生前に自分を可愛がってくれた
優しい母親を想い、その能力を使って
死後の世界を探したといいます。

極楽浄土に行っていると思っていた
母親を発見したのは、
ほかならぬ地獄。

母親は生前に、息子可愛さのあまり、
美味しい食べ物をほかの子に隠す
ように息子へと与えていたことから
飢餓界に堕とされていました。

骨と皮に痩せ衰えた母親は、
飢餓界で逆さ吊りに。

そんな母親を不憫に思った
“目連尊者”は、夏の修行を終えた
修行僧に食べ物を振る舞い、
一生懸命仏法を聞き、
盛大な法要を行うなど功徳を積んで、
母親の御霊を供養したことに
由来します。

さて、お盆につきものといえば、
盆踊り。

とくに子供の頃は、夕方ともなると
遠くから聞こえてくる炭坑節や
東京音頭に心が躍ったものです。

女の子は浴衣を着て
大人に混じって踊り、
男の子は夜に友達と遊べることが
嬉しく、盆踊り会場の周辺を
走り回っていた昔の夏の風物詩とも
いえる光景が思い出されます。

日本の三大盆踊りに名を連ねるのは、
北から、秋田の「西馬音内の盆踊り」、
岐阜の「郡上おどり」、
徳島の「阿波踊り」です。

これらは三大というだけあって、
長い伝統があって
規模の大きさも桁外れ。

もちろん日本各地で町内に根差した
路地裏の盆踊りや
小学校の校庭に櫓を組んだ
盆踊りなどの数も多く、
盆踊りは日本の夏の風物詩として
欠かせないものとなっています。

秋田の「西馬音内の盆踊り」は、
重要無形民俗文化財に指定された
古くから伝わる伝統的な盆踊り。

毎年8月16日から18日まで
西馬音内本町通りの中心部に
囃子場を設置し、通り沿いに
焚き火を灯して、その扮装から
“亡者踊り”ともいわれる野生的な
踊りと艶やかな浴衣の優美な踊りが
融け合ったもの。

その起源として、鎌倉時代に修験僧が
豊穣祈願で踊らせたという
説があります。

全国的にも有名な徳島の
「阿波踊り」は、“連(れん)”と
呼ばれる踊りのグループが1000組ある
ともいわれる規模の大きさが魅力。

独自の踊りが受け継がれている
有名連を始め、地元企業の社員や
家族で構成された企業連、素人同然の
集団まで、多くの人々が参加。

毎年8月12日から15日までの4日間で
100万人もの来場者が
いるというから驚きです。

懐かしさを感じる古い町並みで繰り広げられる「郡上おどり」。

7月から9月にかけて
「郡上おどり」が繰り広げられるのは、
岐阜県のほぼ中央に位置する
郡上八幡市街地。

長良川の支流の吉田川に沿って
南北に広がる魅力に溢れた
古い町並みを見下ろすかのように建つ
郡上八幡城。

武家屋敷の面影を残した建屋の軒先を
水路が流れる昔ながらの懐かしさに
包まれた城下町です。

国指定重要無形民俗文化財に
指定されている「郡上おどり」は、
古い踊りの流れをくんだ
盆踊りとして江戸時代頃に
始まったといわれています。

江戸中期、初代藩主が“盆の4日間は
身分の隔てなく無礼講で踊る”と
領民親睦のために奨励したことが
発祥ということもあり、
親睦を図る意味で、
現在も地元住民だけでなく、
観光客も参加できるのが特徴です。

本来は、7月9日の
“郡上おどり発祥祭”を
皮切りに、7月16日の
“八坂神社天王祭”や
“盂蘭盆会(徹夜おどり)”を
含む七大縁日に、各町内の縁日が
加わり、現在では30夜以上
繰り広げられている郡上地区での
“おどり”の総称ですが、
全国的には8月13日から16日までの
4日間、徹夜で踊り明かす
“盂蘭盆会(徹夜おどり)”が
「郡上おどり」と認知されます。

ここ最近は、20時~翌朝5時までの
最長9時間を踊り明かすのが
通例でしたが、新型コロナ対策として、
今年は3年ぶりに翌1時までの
開催と発表されました。

「郡上おどり」に参加する
衣装に決まりはなく、
Tシャツ短パンでの参加も可能ですが、
町中が浴衣に彩られることもあり、
男女ともに浴衣による参加がオススメ。

また下駄の音が踊りの調子を
高めることもあり、
下駄は必須アイテムのようです。

とにかく町全体が
「郡上おどり」一色となるのは壮観。

一度は参加したい盆踊りといえます。