嘉納治五郎物語⑨
オリンピック初参加の後、大学昇格に向けた闘い。

嘉納治五郎師範ストックホルムオリンピック開会式1912年_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 ストックホルムオリンピック 開会式 1912年
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

オリンピックへの初参加は、
「治五郎」がいたからこその快挙。

世界オリンピック大会の提唱者である
フランスのクーベルタン男爵が、
日本をオリンピックに
招致するために、
駐日フランス大使を通じて
連絡をとったのが、
他ならぬ「治五郎」でした。

これは当時、
日本の近代スポーツの道を
率先して拓いていた
第一人者である彼だからこその、
当然の選択。

すでに世界に広まり始めていた
“柔道”の講道館創設者で、
優秀な卒業生を輩出する
東京高等師範学校の校長を
長年にわたって牽引してきた
“教育者”ということも、
適任者として申し分のない経歴と
判断したようです。

クーベルタン男爵からの
強い懇望もあり、
1909年(明治42年)に
東洋初のIOC
(国際オリンピック委員会)
委員に就任します。

それは第4回の
ロンドンオリンピックが
開催された翌年のことでした。

IOC委員になった
「治五郎」の最初の課題は、
オリンピックへの初参加です。

そのためには、日本国内に
オリンピック委員会を創設して、
代表選手の選考を
行う必要があります。

さらに、1912年(明治45年)の
第5回ストックホルム大会の
開催国であるスウェーデンから
参加要請があったことで、
急を要する事態に急転。

日本の選手を送るためには、
選手を決める選考母体が必要ですが、
文部省は興味を示さず、
日本体育会の協力も
得られませんでした。

そこで、賛同を得た
いくつかの大学とともに新しく
「大日本体育協会」を立ち上げ、
この体協が大学各校に呼び掛けて、
1911年(明治44年)日本初となる
オリンピック予選会を開催。

そこで、初の日本代表選手となる
短距離走の三島弥彦とマラソンの
金栗四三(かなくりしそう)
の2名が選出されました。

オリンピック参加を前に、
「治五郎」が彼らに伝えたのは、
“日本を代表する紳士たれ”
ということです。

講道館柔道の創始者として、
ことのほか礼節を重んじた
彼らしい激励の言葉でした。

マラソン競技に参加した
金栗四三は、現役引退後、
日本のマラソン界の発展に
大きく関わり、
箱根駅伝の開催に
尽力するなど、
後に“日本マラソンの父”と
称されました。

そして、彼の実直な
人物像を浮き彫りした
NHKの大河ドラマ「いだてん」では、
東京高等師範学校で教えを受けた
「治五郎」の背中を追うように、
礼節を重んじ、
勤勉であり続けた生き様が描かれ、
「治五郎」も
ドラマの重要な役割で登場します。

また、オリンピック参加当時に
日射病により途中棄権した
金栗四三は、
1967年(昭和42年)の
ストックホルムオリンピック
開催55周年式典に招待され、
会場に設けられた
ゴールテープを切るという
演出で迎えられました。

会場には、
“日本の金栗選手、
54年8カ月6日5時間32分20秒3で
ゴールイン。
これをもって第5回
ストックホルムオリンピック大会
の全日程を終了しました”
という粋なアナウンスが流れ、
ゴールイン後の金栗四三の
“長い道のりでした。
この間に、孫が5人できました”
という洒落たスピーチは、
会場中の大きな拍手を誘いました。

 

嘉納 治五郎 師範高等師範学校校庭で柔道を指導_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 高等師範学校校庭で柔道を指導する。
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

師範大学昇格は、
約10年にもおよぶ闘いの連続。

第5回
ストックホルムオリンピック
への日本の初参加も
無事終わりました。

安堵のため息をつく暇もなく、
兼ねてから課題となっていた
東京高等師範学校の師範大学昇格
に取り組むことに。

というのも、東京高等師範学校は
高等教育機関(旧制の専門学校)
とみなされ、
大学の“格”ではなかったからです。

日本教育界の“総本山”
と呼ばれるにまで成長し、
東京帝国大学に何ひとつ
劣るところがないと
自負はしていたものの、
大学昇格には、
なかなか一筋縄ではいかない
高い壁がそびえ立っていました。

教育諮問会議の場や、
政府首脳、文部大臣経験者などに
直接面会して訴えるものの、
東京帝国大学中心主義の
役人や大学関係者に
その主張を遮られるばかり。

その積年の思いがかなったのは、
「治五郎」が
定年によって勇退した後の
1923年(大正12年)
のことでした。

その発端は、東京高工
(現在の東京工業大学)、
神戸高商(現在の神戸大学)
が大学昇格に向けて
声をあげたのと連動して、
東京、広島の両高等師範学校が
加わったことで、一挙に
問題解決へと大きく傾いたことです。

この年の9月、関東大震災により
1929年(昭和4年)度の昇格に
繰り延べされましたが、
10年間にもおよぶ闘いに、無事、
終止符が打たれる日が訪れました。

それまで考えることもなかった
オリンピックへの初参加で、
日本は近代国家として
新たな道が拓け始めました。

今では当たり前に
慣れ親しんでいるスポーツも、
「治五郎」が道なき道を開拓した
成果の賜物。

もし彼がいなかったら、
スポーツの発展は何十年も
遅れていたのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.1月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第13話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑧
通算23年勤め上げた、重責の高等師範学校長職。

東京高等師範学校_菊正宗ネットショップブログ
東京高等師範学校
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

33歳で高等師範学校長に就任。
新しい時代の教員育成への舵取り。

せっかく、手塩にかけた
第五高等中学を辞めることは、
決して望まなかった…と、
「治五郎」は、
自著で追想しています。

しかし、その時、
文部省の教科書検定事業において、
その方針が外部に漏れる
という大問題が発生し、
文部省ではその火消しに
躍起になっている最中(さなか)。

行政官、教育者として清廉潔白な
彼に白羽の矢が立ったのは、
ある意味、当然の選択でした。

1893年(明治26年)、
東京に呼び戻された「治五郎」を
待ち受けていたのは、
文部省参事官としての激務。

それに折り重なるように、
第一高等中学校(現東京大学)校長、
高等師範学校
(東京教育大学を経て、現筑波大学)
校長の職を兼務することになり、
その傍らで“講道館”“嘉納塾”の
運営、指導を行っていました。

さすがに3つの要職の兼務は、
あまりにも過酷過ぎて長くは続かず、
ひとつに絞って
高等師範学校長の専任に。

この時「治五郎」は、
まだ33歳です。

「治五郎」の
高等師範学校長の足跡は、
時代ごとに第1次、第2次、第3次の
三度に分けられます。

ただ、
いつもその時代の学校改革を先駆け、
それを手本として
全国に広まって行った
ということがいえます。

2度の辞職を経て、
生涯を通じて23年間も
高等師範学校長の重責を勤め上げ、
国立唯一の高等師範教育機関で、
通算20年を超えて
校長職にあったのは、
後にも先にも「治五郎」だけでした。

第1次の校長職は
1893年(明治26年)から
1897年(明治30年)の4年間。

「治五郎」が校長になった頃の
高等師範学校は、
生徒数90人程度と規模が小さく、
教授の数や予算も貧弱そのもの。

当時、第一高等中学が
1000人もの生徒を
全国から受け入れていたのと
比較すると、その差は歴然でした。

それを変えるために、まずは
全国の優秀な中学校卒業生を
毎年受け入れ、
予算も文部省に直接掛け合って
大幅に増額、
教授陣の充実も急ぎました。

そのひとつが、
東京帝国大学大学院生で
秀才といわれた当時26歳の
“夏目金之助(後の夏目漱石)”を
嘱託の英語教師として招聘。

彼の採用は、
他の英語教師への良い刺激となり、
教育現場の空気は
一新したといいます。

政府が、
行政に関わるさまざまな事業を
縮小整理しようとする流れの中で、
まさに異例の快挙でした。

また、
政府方針を否定することを恐れずに、
軍隊式教育方針を排除する
大英断を敢行。

加えて、自由を重んじる
学生寮規則を制定するなど、
自由な教育環境の基礎を
築き始めました。

運動面では、西洋風の体育を導入。

日本の学校組織としては初となる
柔道部や陸上部などの運動会
(今のクラブ活動)を創設し、
学生はそのどれかに所属して
毎日30分以上は必ず運動することを
ルール化することで、
基礎体力づくりを奨励しました。

「治五郎」がめざしたのは、
欧州視察で見聞きした
深い見識が随所に生かされた、
近代日本を担う新しい教育制度です。

 

嘉納治五郎師範肖像明治27年ころ30代_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 肖像 明治27年頃(30代)
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

中央政界の余波を受け、
最初の頃は、辞職、再任を繰り返す。

高等師範学校の
新しい基礎を築いたにも関わらず、
混乱する中央政界の余波を受け、
教育理念を持たない
文部省次官と衝突しても
信念を曲げなかったため、
最初の校長職を辞職することに。

混迷する政局が絡み、
非職して3カ月後に復職したものの、
第2次の校長職も、半年余りで
再び辞職することに。

ところが、
第3次は意外にも早く訪れます。

文部官僚人事が
大きく変わったことが幸いして
1901年(明治34年)
再び校長職に就き、
1920年(大正9年)に
60歳で退職するまで、
19年にもおよぶ長い在職です。

校長初任時に
僅かだった在校生徒数も、
「治五郎」の定年退職時には
724人と、大きく増えていました。

3度目の長い校長職就任期間には、
修業年限を3年から4年に広げ、
文科と理科だった学部に
体育科を設置するとともに、
それぞれの本科の上に、
専攻科や研究科(今でいう大学院)
を設けました。

当時のトップであった
東京帝国大学並みの
最高学府に育てることを目標に
取り組んだといいます。

もちろん、優秀な教授の充実にも
力を注ぎました。

僅か100人前後の生徒たちを
指導するために、前述の
夏目金之助(夏目漱石)を始め、
当時、それぞれの分野で高名な
錚々たる面々を招致した
「治五郎」の手腕には
舌を巻くばかりです。

重責の校長職にあって、
毎日曜日の早朝、
“嘉納塾”塾生への処身法講義や
“講道館”館員への柔道講義を
欠かすことはありませんでした。

教育に真っ向から向き合い、
一点の曇もない
彼の教育にかける思いは、
“教育の父”と称されることからも
計り知ることができます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.9月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第9話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.10月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第10話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.11月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第11話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑦
欧州視察からの帰国、結婚、単身赴任。
波乱に満ちた1年。

嘉納治五郎師範夫妻結婚当時_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 夫妻 結婚(明治24年)当時
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

欧州視察から帰国した年、
人生の大きな分岐点となった
二つの出来事。

1年4カ月にもおよぶ
長い欧州視察から
「治五郎」が帰国したのは、
1891年(明治24年)1月のこと。

長旅の疲れを癒す意味もあり、
帰国後は、
姉の勝子の嫁ぎ先である
東京麻布の柳邸に
しばらく逗留することに。

ずっと働き詰めの
「治五郎」にとって、
久しぶりのまとまった休息でした。

休んでいる間に、勝海舟の紹介で
漢学者の竹添進一郎と会う機会があり
、それが縁で、竹添の次女の
須磨子との婚儀がまとまります。

出会って数カ月の決断でした。

「治五郎」がそんな
人生の大きな節目を迎えている中、
彼の知らないところで、もうひとつの
彼の人生を左右する動きが。

学習院と文部省との間で、
帰国後の「治五郎」の処遇を巡って、
何度か話し合いが持たれており、
その結果、
“熊本の第五高等中学校
(現熊本大学)校長就任”と
“文部省参事官就任”の2つの要請が
「治五郎」に示されました。

熊本からの要請は
校長在職中ということで断り、
文部省参事官の要請を承諾。

ところが、第五高等中学校校長が
急逝したことで再要請があり、
文部省参事官兼務で
校長に就任することを
決断しました。

それまで教授として籍を置いていた
学習院の教壇を去ることに、
一抹の寂しさを感じたといいます。

同年8月に、
熊本での校長就任を前に、
姉の嫁ぎ先の柳邸にて
挙式を上げました。

新郎である「治五郎」が32歳、
華族女学校卒業前の
新婦の須磨子は18歳。

本当なら、これから
新婚生活が始まるところですが、
約1カ月あまり後の9月には、
新妻を東京に残したまま、
熊本の第五高等中学校に
任期3年の校長として、
単身で赴任しました。

「治五郎」が洋行帰りの
知識人であったことに加え、
“講道館柔道”の創始者
としての名声も熊本に届いており、
全校生徒に羨望の眼差しで
迎え入れられたといいます。

1891年(明治24年)は、
1月に帰国して、8月に結婚、
9月には熊本に単身赴任。

1年も経たない間に、
人生の大きな岐路を
2つも経験するという、
とても忙しい年となりました。

 

 

嘉納治五郎師範写真中央_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 写真中央 五高集合写真 左の横を向いているのがハーン
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

赴任地の熊本で、
「治五郎」の教育に対する思いは、
より深く育ちました。

熊本に校長として赴任して、
まず行ったのが柔道場づくりです。

ただ、それに充てる予算がないため、
校長官舎の物置に床をつくって
畳を入れ、自宅の道場は完成。

学校の生徒控所のタタキの上に
40畳の畳を敷いて
学校の道場もできたこともあり、
自宅と学校の両方で
“柔道”を教え始めました。

幸いにも、弟子の柔道家を
連れてきていたので、
彼を助手に「治五郎」自らが
指導の毎日。

そして、学内にとどまらず、
九州を代表する
柔術諸流派の協力を仰いで、
“柔道”の普及による
“九州柔道”の基礎を築きました。

また、自身が指導する
“柔道”だけでなく、
剣道、弓道、野球などのスポーツを
学内生活に取り入れるなど、
その時代としては珍しい
スポーツ振興を導入したのも、
新しい教育の一環といえます。

続いて、人事面でも
独自の手腕を発揮します。

アメリカ人教師で、その時すでに
作家としても名を馳せていた
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
を教授として、前任地の
島根県松江から招聘したのも、
教授陣の充実を図る
取り組みのひとつです。

ハーンは、
日本文化に深く傾倒しており、
“柔術”を創設した
「治五郎」への興味と
日常的に英会話を使いこなす
親近感から、「治五郎」を
深く敬愛していました。

その強い思いから、
後に「東の国から」という
著書の中の“柔術”で
「治五郎」と交わした言葉が登場。

この本を通じて
欧米へと“柔道”が広まり、
やがて世界の舞台へと
送り出されることになります。

赴任地の熊本で、まだまだ
やろうとしていたことが
数多くあったにも関わらず、
3年の任期を半分過ぎたあたりで、
第五高等中学校長の任を解かれ、
文部省参事官兼図書課長として
呼び戻されることになりました。

「治五郎」はその要請を
快く思わず、また地元熊本では
留任運動が巻き起こるほど
愛されていました。

しかし、辞令は覆ることなく、
1年半の勤務は終わりを告げます。

熊本を後にすることが決まり、
その送別会の挨拶で、
「治五郎」は
“余は実に忍びず、余は実に苦しむ…
九州なるかな、九州なるかな、
余は九州を愛せり”と。

わずかな期間であったが
「治五郎」が成し遂げたことは、
とても一人の人間が成し得ることが
できないほどの教育改革でした。

その経験は、
その後の教育現場に生かされ、
さらに磨き抜かれたものに
なって行きます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.8月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第8話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑥
最愛の父の死と、大きな転換期となった欧州視察。

嘉納治五郎師範講道館創立の頃_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 講道館創立の頃
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

父、作之助の死に呆然自失。

「治五郎」が学習院の
幹事兼教授に抜擢された
1885年(明治18年)9月、
父の治郎作が享年74歳で他界。

亡くなる前の年に、
海軍権大書記官に
任命されたばかりでした。

突然、心の支えを失った
「治五郎」の喪失感は大きく、
しばらくは暗澹(あんたん)たる
日々が続いたといいます。

父が亡くなって数年が経った
1888年(明治21年)のこと、
学習院第4代院長に
三浦梧楼が就任しました。

「治五郎」が唱える
“華族、士族、平民の区別のない
平等教育の実施”
という意見に対し、
新しい院長は
“学習院は華族の学校なので、
華族優先の差別教育”
を主張したため、真っ向から対立。

どうしても意見を変えない
「治五郎」を疎ましく思う
新院長から、宮内省御用掛として
欧州への海外視察を命じられ、
苦々しくもこの提案を
受けることになったのです。

併せて、教頭職は解かれること
となりました。

そんなこともあり、
教育に対する情熱に
やや陰りを感じた「治五郎」は、
欧州視察の出航の前に、
師と仰ぐ枢密顧問官の
勝海舟の私邸を訪ねました。

欧州での見聞をもとに
学問に没頭しようとする考えを
告げたところ、
勝は笑みをたたえながら、
それを一蹴。

“それはいけない。
社会で事を成しつつ、
学問を成すべきだ”と諭され、
その忠言を深く受け止めました。

この短い言葉に込められた、
“高等教育者として、
また講道館師範として、
現場での研鑽を積みながら、
東西の学問に打ち込め”という
勝のエールに、
決意を固めた「治五郎」でした。

翌1889年(明治22年)9月、
最初の欧州視察がスタートしました。

1年4カ月にもおよぶ長期視察では、
フランス、ドイツ、オランダ、
オーストリア、イギリスなどを訪問。

とくにその国々の
教育制度の視察を中心に、
国民性や文化の見聞を広げました。

その様子は彼の“英文日記”に
つぶさに書き記されています。

この欧州視察での
「治五郎」の感想は、
“欧州の人に会うと、
知識ではかなわないと
感じることもあるが、
能力という点で
引けを取ることはなかった。

著名な教育者に面会しても、
日本人より優れているとは
必ずしも思わない。

もし劣っているとすれば、
日本は新しい教育になってからの
日が浅く、制度や人材などが
整っていないに過ぎない”
というもの。

そして、改めて教育の大切さを
自覚し直したといいます。

余談となりますが、
日本への帰路の船上で、
屈強な巨漢のロシア人士官を
“柔道”で投げ飛ばしたことが
新聞記事となり、
全国に彼の名や“柔道”を
広めることになりました。

 

柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段_菊正宗ネットショップブログ
柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

「治五郎」の“柔道”が一躍有名になった、
警視庁武術大会での勝利。

さて、「治五郎」が興した
“柔道”はというと、
1885年(明治18年)5月まで、
時は遡ります。

警視庁総監の三島通庸が催した
武術大会で、“講道館柔道”が
“警視庁柔術”を制するという
前代未聞の出来事が起こり、
“講道館柔道”の名が一躍、
世間に知られることとなります。

武術大会では、
“講道館”と“警視庁”が
それぞれ代表を出して、
行われたのは2試合。

最初の試合、
相手は巨漢で一門を代表する
四天王のひとりを繰り出します。

“学生柔道ごときに何ができる”
と舐めてかかった猛者に
臆することなく、
無名の白帯が
絞め技で失神させて完勝。

続く試合も
約30cmの身長差がある相手が、
力任せに挑んでくる力を
応用して技を掛け、
こちらも完勝で試合を決めました。

まさに“柔よく剛を制す”試合運びが
世間を沸かせたのは、
言うまでもないことです。

翌年も同じように
警視庁武術大会が開かれ、
“講道館柔道”と“警視庁柔術”が再戦。

最初の試合は
多彩な技で相手を翻弄した
“講道館柔道”の勝ち。

続く試合は、実力伯仲の
1時間にもおよぶ接戦が続きました。

関節技を極めたものの、
面子を重んじた相手が
参ったといわないため、
審判判定により
引き分けとなりました。

とはいえ、試合運びでは
“講道館柔道”の完全勝利で、
名実ともに、
“講道館柔道”の名前を
天下に轟かせる
キッカケとなりました。

何より、試合の勝ち負けだけに
こだわる柔術から、
試合後にお互いの健闘を讃え合う
“柔道”に大きく傾く
瞬間だったのかも知れません。

とくにこの最後の試合は、
後々までの語り草となりました。

最初の大会が行われたのは、
父の治郎作が亡くなる
約4カ月前のこと。

父として、
息子の「治五郎」がめざした
“柔道”が、世間に
大きく知れわたったことに喜び、
立派に成長した息子の姿を
微笑ましく思うとともに、
例えようのない幸福感を
感じ取ったに違いありません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.6月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第6話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.7月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第7話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑤
“柔道”が軌道に乗り、新たに教育者として一歩を踏み出す。

永昌寺_1882.2-1883.2_菊正宗ネットショップブログ
永昌寺_1882.2-1883.2
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

“柔道”の概念も固まり、
門人が集まり始めました。

1879年(明治12年)、
「治五郎」は、
父の治郎作と交流のあった実業家の
渋沢栄一からの依頼により、
渋沢の飛鳥山別荘にて、来日中の
アメリカのグラント前大統領の
歓迎のための御前試合を
披露することになりました。

師の福田八之助ほか、
磯正智師範など大先輩らとともに
柔術の形を演じるという
貴重な体験で、
師範格に混じった唯一の大学生で、
英語に秀でていたこともあって、
ひと際目立つ存在であったことは
確かです。

翌1880年(明治13年)には、
東京大学の学園祭で開かれた、
“天神真楊流”の原点となる
“楊心流戸塚一門”の演武披露に
飛び入り参加。

小柄の「治五郎」が
“楊心流戸塚一門”の巨漢と
試合をして勝ち、
一躍、世間の話題に。

「治五郎」がめざしたのは、
それまでの柔術で認められていた、
喉を突いたり、武器を使う
危険な技を排除した、
精神的な規律を重んじる
理論的な武術で、
試行錯誤を繰り返しながら、
東京大学卒業の
1881年(明治14年)、
「治五郎」が22歳の年に
“柔道”は確立されました。

翌年の1882年(明治15年)、
東京上野の永昌寺に
“嘉納塾”
“講道館”
“弘文館(宏文館)”
という3つの教育事業拠点を開設。

“嘉納塾”は、
目先の利に捉われない
大きな視野を持った
将来を担う人材の育成、
“弘文館(宏文館)”は
留学生受け入れを兼ねた英語学校
という目的で開設されました。

そして“講道館”は、
ご存知のように今につながる
“柔道”の拠点です。

ここでは、“柔道”への理解を
深めてもらうため、
“練体法
(体育的に身体が凝り固まることなく
自在かつ敏捷(びんしょう)な
強さを習得)”、
“勝負法
(攻撃と防御を兼ね備えた
武術としての柔道)”、
“修心法
(智徳の修養と柔道の原理を
実生活に応用する研究と実行)”
の3つに分けて解き、
これらの技法を重ねて
会得することで、
“心・技・体”の備わった
人格形成につながるもの
と考えていました。

“講道館”は、この地から
幾度かの移転を繰り返し、
1958年(昭和33年)に
現在の東京文京区春日に移り、
現在に至っています。

ちなみに、10年後の
1893年(明治26年)まで、
約2600人の門人を抱えました。

しかし、いずれの入門料や学費を
一切徴収することはなく、
赤字経営を覚悟の上で、
「治五郎」がすべて自己負担。

学習院での給与や英書翻訳などの俸給
を運営補填に充てたといいます。

それほど、
人の教育の大切さを理解し、
実践するために、
つねに未来を見据えた活動へと
広くつなげて行きました。

 

嘉納治五郎師範草創期2列目左から4番目_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 草創期 2列目左から4番目
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

「治五郎」の教育者としての第一歩。

柔術から“柔道”へと
着実に足場を固めていく
「治五郎」でしたが、
多彩な彼の才能は、教育現場でも
新しい道が開き始めます。

それは、まだ東京大学哲学選科
(現在の大学院)に在学していた
1882年(明治15年)、
卒業を間近に控えた彼に
学習院から教師の要請が
舞い込んできました。

政治学と理財学(経済学)を
英書で教えるクラスと
日本語で教えるクラスへの
教師要請です。

大学選科で学問を続けながら
勤務できることもあり、
嘱託を快く承諾。

いわゆる“華族の学校”である
学習院の教壇に立つのを
要請されたことは、
まだ若かった「治五郎」にとって、
とても誉れ高い出来事であった
という言葉が残されています。

その後、
1885年(明治18年)には、
学習院の幹事兼教授に抜擢。

これは、
華族会館が運営する私立学校から、
宮内省管轄の官立学校に転換した
ことも大きく影響しています。

そして
翌1886年(明治19年)には、
学習院の教頭に昇任。

“柔道”を広く啓蒙するかたわら、
教育者として一歩を踏み出した
26歳のことでした。

晩年、「治五郎」は、
講道館柔道師範としての
功績だけ語られるのを
決して快く思っていなかった
といいます。

というのも、学習院講師を皮切りに、
政治学や理財学(経済学)、哲学など
、さまざまな分野で教鞭を執り、
睡眠時間を惜しむように
英米仏の論文を読破し、
翻訳も手がけるなど、
「治五郎」のあふれる才能は、
多岐に発揮されました。

そういう意味で、“柔道”は、
「治五郎」の人生のひと欠片に
過ぎないのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第4話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.5月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第5話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓