土の神様に感謝する「春の社日(はるのしゃにち)」。

現在のお墓事情と墓参りの習慣。

戦後の復興とともに
欧米文化が日本に入り込む中で
人口は増えはじめ、
それまでの戸建て住宅から、
団地やマンションなど、
住宅は階層を重ねながら
“空”に向かって
伸び続けました。

そうした社会事情を背景に、
核家族化という
新しい生活様式が定着したのも
ずいぶんと昔のお話。

そして今、高度経済成長期以降の
ライフスタイルを牽引した
団塊世代が、終活を行うような
年齢を迎えました。

このような時代になり、
昨今のお墓事情は
大きく変わってきています。

核家族化、少子高齢化によって
“先祖代々の墓を守る”
ことに対する意識は次第に薄れ、
墓の管理が不要な“永代供養”や
個別の墓を持たない“合祀墓”
“集合墓”“納骨堂”“樹木葬”など、
固定費がかからない
供養スタイルが増加傾向に。

お寺も檀家離れを防ぐために、
スマホで墓参りができる“スマ墓”
など新しい墓参りスタイルを
導入しはじめました。

とはいえ、まだ団塊世代比率が
高い現在、従来のお墓参りは
しばらく継続されそうです。

お墓参りのタイミングは、お盆や命日
、春秋の“彼岸”の年4回に加え、
年末年始、月命日などがあります。

このなかで、お盆に次いで、
墓参りが集中するのが、
春の“彼岸”の中日(春分の日)、
秋の“彼岸”の中日(秋分の日)です。

“彼岸”は仏教用語ですが、
日本独自の行事。

“彼岸”はあの世のことで、
それに対して現世は
“此岸(しがん)”と呼びます。

春分の日、秋分の日は
“彼岸”の中日にあたり、前後7日は
“六波羅蜜(ろくはらみつ)”
の修行に励むという
教えに基づいています。

“六波羅蜜”とは、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧
の6つの善行のことで、
その根底にあるのは先祖や仏様に
感謝をするという教えです。

仏教では、“苦”“楽”や“有”“無”に
しばられることなく、
どちらにも偏らない
“中道”を重んじることから、
昼と夜の長さが同じ春分・秋分を
その教えの象徴として
重んじたとされます。

さて、この“彼岸”に紐づく歳時
「社日(しゃにち)」がありますが、
その存在は“彼岸”ほど
知られていません。

 

「社日」は、“彼岸”に近い“戌の日”。産土神を祀る日です。

「社日」は、春秋の“彼岸”の中日に
最も近い“戊(つちのえ)の日”で、
2020年(令和2年)の
「春の社日
(略称:春社/しゅんしゃ)」
は3月16日(月)で、
「秋の社日
(略称:秋社/しゅうしゃ)」
は9月22日(火)です。

現在は、 “彼岸”より前の
“戊の日”もしくは“彼岸”と同日が
「社日」とされるのが一般的。

昔ながらの風習を踏襲して、
“彼岸”になった瞬間が
午前なら前の“戊の日”、
午後なら後ろの“戊の日”
という地域も一部にあります。

「社日」は、より細かく
季節の移り変わりを表す
“節分”や“彼岸”と
同じ雑節のひとつで、春は種蒔き、
秋は収穫時期にあたります。

「社日」の“社”は、土地の守護神や
産土神(うぶすなかみ)を祀る
農耕にとって大切な節目の日とされ、
春は五穀豊穣を願い、
秋は収穫に感謝する日と
位置づけられます。

“戊の日”は五行説に基づく
十干のひとつで、
“土の兄(つちのえ)”
にあたることから、
土の神を祀る日となったとされるため
、「春の社日」は、土地の神の怒りに
触れることを避ける意味で、
土に触ることを禁じる
風習があります。

「春の社日」には、
さまざまな言い伝えがあります。

「春の社日」には不思議と
雨が降ることが多いことから、
この日に降る雨を
“社翁の雨(しゃおうのあめ)”
と呼んだり、燕が春に訪れ、
秋に飛び去ることから、
「社日」を“社燕(しゃえん)”
と呼ぶ地域もあります。

また、「春の社日」にお酒を飲むと、
耳の聞こえがよくなるという
言い伝えもあり、この日に飲むお酒を
“治聾酒(じろうしゅ)”と呼びます。

農業に従事する人口が減っている現在
、土地の神を祀る
「社日」の風習を知る人は
減っています。

五穀のひとつである
“米”はご飯や日本酒に、
“豆”は醤油や味噌などの調味料に
…普段から、食卓を彩る食材として
関わっていることを考えると、
改めて「社日」に、
土の神様に感謝する気持ちを
持つことも大切といえます。

春の巣立ちは、笑顔を添えて、日本酒で乾杯。

かつて持てはやされた“金の卵”は、近代日本を支えた“団塊世代”。

その昔、“金の卵”と呼ばれた
学生たちがいました。

戦後の復興もひと段落した
1954年(昭和29年)の
第一次鳩山一郎内閣あたりから、
大量生産の時代が訪れ、
“高度経済成長期”へと突入。

それに伴って、
労働力が必要となりましたが、
都会では教育熱の高まりによる、
高校や大学へ進学する学生が多く、
労働力不足の事態に。

そこで白羽の矢が立ったのが、
地方や農村の中卒者
(一部、高卒者)の労働力です。

当時、地方の所得は低く、
子どもを進学させる余裕がない
家庭が多く、都市部の企業に
働きに出すということが定着。

東北地方などの農村部の
平均兄弟数が6人以上で、
地域的に人口過剰であったため、
都心部の急激な人手不足との
利害が一致したという
社会的な背景がありました。

その様子を象徴的に表すものとして、
農家の長男はそのまま農家を継ぎ、
次男以降が集団就職列車で東京へ。

東北と都心の玄関口である上野駅に
“金の卵”が降り立つ姿は、
季節の風物詩として
ニュースで流れたり、
映画やドラマのシーンに
登場しました。

集団就職列車と呼ばれた臨時列車は、
1954年(昭和29年)に運行が開始
され、1975年(昭和50年)に
運行終了するまでの21年間にわたり
“金の卵”を送り続けました。

もともと青森−上野間は蒸気機関車で
丸1日かかっていたものが、
特急「はつかり」の登場により
所要時間は大きく短縮したのですが、
それでも所要時間は約12時間。

“金の卵”たちは、
この列車に揺られながら、
故郷を離れる不安をぬぐい去り、
これからはじまる新たな生活への希望へと
気持ちを切り替えたのでしょう。

現在、青森−東京間の最短所要時間は、
東北新幹線を利用して約3時間20分。

昔とくらべるとホントに
便利な時代となりました。

ちなみに“金の卵”は、
“団塊世代”でもあります。

“団塊世代”は、戦後すぐの
“焼け跡世代”の次の世代で、
“第一次ベビーブーム世代”
とも呼ばれていました。

アメリカを中心とした海外の異文化が
大量に流入した時代でもあり、
ファッションへの興味や
食生活の変化、生活家電の登場、
核家族化など、いままでの日本にない
新しいライフスタイルを最初に経験
して育った世代といえるでしょう。

都会で働く若者たちは外国の異文化を
次々と取り入れ、新しい文化にも
積極的に馴染んで行きました。

彼らこそが、戦後日本の新しい成長を
支えた世代といえます。

 

春の別れ酒は、ぜひ“家飲み”で。

かつての“金の卵”たちが、
生まれ育った故郷に別れを告げる
季節は、3月半ばの春の足音が
聞こえはじめる頃。

多くが中卒者ということもあり、
“旅立ちを祝して、お酒で乾杯”
ということはありませんが、
母親が腕を振るった
ご馳走だったであろうことを
計り知ることができます。

何せ、時間距離で
約12時間も離れた遠くの地へ、
子どもを送り出す訳ですから、
巣立つ前夜などは
惜別の涙にあふれていたに
違いありません。

また、“金の卵”たちも、
おいそれとは帰省できない事情
があり、“別れの晩餐”を
悲しさいっぱいに過ごしたことは
容易に想像できます。

それにくらべると、現代の別れは、
さばさばしたものです。

一人ひとりがスマホを持つ時代なので
、その気になれば毎日、
顔を見ながらテレビ通話も可能。

移動についても、張り巡らされた
鉄道網の整備はもちろん、
格安のLCCを使えば移動時間が
短縮し、移動費用を抑えたい場合
は、夜行バスなども毎日運行
しているなど、年を重ねるごとに
利便性の高いサービスが充実し、
別れの寂しさが薄らいでいます。

そんな時代の新しい生活に向けて
のお別れ会は、ぜひ“家飲み”で。

隣席客に気を使う飲食店は
時間制限があるので、
じっくりと別れを惜しむのなら、
時間的に余裕があり、
そのまま布団に潜り込める
「家飲み」が最適です。

手作り料理はもちろん、
百貨店やスーパーのお惣菜、
デリバリーのオードブルなど、
別れの晩餐はお好みの料理を
テーブルに並べては、
いかがでしょうか。

菊正宗 きもと・大吟醸 ネオカップ 180ml

そして、“別れの盃”は、
ぜひ180㎖入り飲み切りタイプの
「ネオカップシリーズ」で。

菊正宗の“顔”ともいえる
杉の香りを纏った「上撰 樽酒」
をはじめ、華やかな際立つ香りと
フレッシュな味わいの
「清酒 しぼりたてギンカップ」、
昔ながらの生酛造りが楽しめる
「超特撰 生酛大吟醸」、
コクと香りを楽しむ
「上撰 純米酒 香醸」、
柑橘系で飲みやすい口当たりの
「リキュール すだち冷酒」
の5種類をラインアップ。

とくに人が集まる機会
だからこそ楽しめるのが、
それぞれのお酒の飲みくらべです。

社会人になる前に、
日本酒の好みの味を見つけられる
絶好の機会といえます。

若者のアルコール離れが
叫ばれる一方で、
日本酒を趣向する
“日本酒女子”が増殖中とか。

また、それにつられて“日本酒男子”
も増えているようです。

現代風のカラッとした
爽やかな笑顔の別れに、
ネオカップで乾杯♪

※イメージ画像です。

「うるう年(閏年)」は、オリンピックイヤーと同じ年…ではない。

4年に1度の「うるう年」で、暦のズレを微調整。

東京オリンピックまで、あと半年。

日本開催ということもあり、
毎日なんらかの五輪に関する話題が
さまざまなメディアを通じて
届けられるようになりました。

4年に1度開催される
夏季オリンピック年は、
「うるう年(閏年)」の年
にもあたります。

“4年に1度、2月29日が訪れる年”
と一般的に認識されていますが、
実は正しくありません。

日本を含む世界各地で用いられている
グレゴリオ暦において、
400年間に97回の
「うるう年」を設けています。

「うるう年」は、
次のように定義されます。

● 西暦で示された年が
“4”で割り切れる年は、
原則として「うるう年」

● ただし、西暦年数が
“100”で割り切れる年は、
原則として「平年」

● ただし、西暦年数が
“400”で割り切れる年は、
必ず「うるう年」

この定義に沿うと、2100年が、
“4年に1度なのに平年”
という珍しい年となります。

「うるう年」の定義の根拠
となっているのは、
“400年間の平均1年が、
365.2425日
(365日5時間49分12秒)”となり、
その誤差を4年に1度調整し、
さらに100年、400年単位で微調整
しているといえるでしょう。

また、1923年にギリシャ正教会
などは“修正ユリウス暦”を採用。

定義の3つ目が
“ただし、西暦で示された年が
“900”で割った余りが
200または600になる年
は「うるう年」”というもので、
原稿のグレゴリオ暦よりも
精度が良いとのこと。

“現行”と“修正”のグレゴリオ暦で、
「うるう年」判断が異なるのは、
2800年。

どちらになるのか、あと780年という
長い年月が解決してくれるのを
待つことになりそうです。

 

月由来か、太陽由来か。天体の動きで正確な時を刻んできた歴史

日本がグレゴリオ暦を採用したのは
1873年(明治6年)でしたが、
改暦の詔書の内容が不十分で、
“1900年(明治33年)を平年とする”
ために、1898年(明治31年)に
「勅令第90号(閏年ニ関スル件)」
を発布。

その内容は
“神武天皇即位紀元年数(皇紀年数)
を4で割って、
割り切れる年を閏年とする。
ただし、皇紀年数から660を引くと
100で割り切れる年で、
かつ100で割った時の商が
4で割り切れない年は平年とする”
というものです。

ちなみに、
日本での「うるう年」の判定基準は、
西暦ではなく、
皇紀によって行っていますが、
西暦判定と同じ数値となります。

日本で西暦を一般的に使用するように
なったのは第二次世界大戦以降のこと。

グレゴリオ暦改暦以降も、
昭和20年までは
“皇紀(神武天皇即位紀元)”
が主に使われていました。

中国から日本に
“元嘉暦(げんかれき)”が
伝来したのは6世紀頃のこと。

その後、“儀鳳暦(ぎほうれき)”
“大衍暦(だいえんれき)”
“宣明暦(せんみょうれき)”
“貞享暦(じょうきょうれき)”
“宝暦暦(ほうりゃくれき)”
“寛政暦(かんせいれき)”
“天保暦(てんぽうれき)”と続き、
現在のグレゴリオ暦に至ります。

“天保暦”までが旧暦(太陰太陽暦)、
グレゴリオ暦を新暦(太陽暦)
…と大きく分けることができます。

というのも、旧暦(太陰太陽暦)が
月の満ち欠けを1ヵ月と数えるのに対し、
新暦(太陽暦)は
地球が太陽の周りを回る周期を
1年とするという
計測の方法が大きく異なるからです。

旧暦(太陰太陽暦)では
1年はおよそ354日で、
新暦(太陽暦)とくらべて
約11日少ないのを、
3年に1度、「うるう月」を設けて、
周期のズレを調整。

新暦、旧暦ともに
地球の公転に合わせて、
“うるう日”や“うるう月”により、
何年かに1度「うるう年」として
調整するということでは
同じといえるでしょう。

旧暦は、もともと中国から
伝わったものを
そのまま採用していましたが、
800年以上使われていた
“宣明暦”に誤差が蓄積され、
実際の日付のズレを正すために、
1685年(貞享2年)、
日本人の手による初の和暦となる
“貞享暦”へと改暦されました。

編纂したのは暦学者で
囲碁棋士の渋川春海。

中国からの暦を元に、自ら観測した
日本と中国の経度差を当てはめて
日本独自の和暦を完成。

グレゴリオ暦が採用されるまでは、
“貞享暦”を元に
改暦されていきました。

参考となる
知識も道具もないこの時代なのに、
“貞享暦”の精度は、
西洋、中国のそれに
引けを取らない
ものだったようです。

ちなみに、渋川春海の
苦難に充ちた偉業は、
2010年本屋大賞を受賞した
冲方 丁(うぶかた とう)の
「天地明察」に
見事に描かれており、
2012年には映画化され、
大ヒットとなりました。

西洋とくらべて、
科学という概念があまりない江戸時代。

こうした、日本人の持つ
経験則に裏づけられた勤勉さが
実を結ぶことが、時折、
歴史に顔を覗かせます。

日本酒醸造の仕組みやメカニズムにも、
先人たちの知恵がギュッと凝縮されています。

令和初の「蔵開き」、新酒「しぼりたて」の人気も上々。

新酒「生酛しぼりたて」で、今年のお酒の出来を計り知る。

丹波杜氏の技に支えられた
“寒造り”によるお酒の仕込みも、
そろそろ終盤を迎えるこの時期、
令和初となる「蔵開き」が、
2月15日(土曜日)に
開催されました。

今年で第15回目を迎える
「蔵開き」の会場は、
普段立ち入ることのできない
嘉宝蔵構内や
隣接する菊正宗酒造記念館。

曇天ながら雨が降ることもなく、
多くの人で賑わいました。

蔵開きにご参加いただいた
多くのお客様のお目当ては、
やはり新酒「生酛しぼりたて」の
出来映え。

新酒「生酛しぼりたて」の
振舞酒には、毎年のことながら
人垣ができる盛況ぶり。

新酒「生酛しぼりたて」は、
仕込みを終えて
醪(もろみ)を搾った後、
火入れ(低温加熱殺菌)を行い、
そのまま瓶詰めにしたもので、
その年のお酒の出来を
計り知ることができる
といわれています。

まさに“今が旬”のしぼりたてらしい
、フレッシュな荒々しい味わいと
鮮烈な香りが癖になるお酒です。

ちなみに、一般的な日本酒は、
搾った後に火入れを行って
数ヶ月間貯蔵。

熟成させることで、
お酒の角がとれて
まろやかな味と芳香をまとった
深いコクを醸し出します。

だからこそ、
新鮮さを味わえるのは、
この時期だけのお楽しみなのです。

それに続いて人気だったのが、
「百黙」の3種類飲みくらべ。

兵庫県三木市吉川特A地区産の
山田錦を100%使用した
特別限定酒で、
丁寧に醸造しているがゆえ
量産ができず、
兵庫県下の料飲店や酒販店を中心に
展開されているものです。

最近になり、東京都内での流通を
ようやく開始した希少なお酒で、
これを飲みくらべられる
絶好の機会ということもあって、
菊正宗ファンにとってはこの上ない
ひとときだったようです。

また、軒を連ねる
“吉川町うまいもん屋台”“大起水産
・生本まぐろの寿司と刺身”
をはじめ、粕汁、おでん、
たこ焼きの屋台など、
旨い酒にピッタリと合う
旨い肴が盛りだくさん。

構内全体がほろ酔い気分に包まれ、
さながら、“日本酒バル”のような
雰囲気を醸しています。

構内一角に設けられた舞台では、
匠の技が光る“菰巻き(こもまき)”
の実演をはじめ、
丹波杜氏による“酒造り唄”の披露や
昭和レトロなちんどん屋“華乃家”の
パフォーマンスなど、
陽気なほろ酔い客を
もてなす演目が目白押し。

イニエスタ選手が菊正宗アンバサダー
に就任したことで実現した
ヴィッセル神戸とのコラボ企画では、
福引きやイニエスタ等身大パネルの
フォトスポットを設置。

また、嘉宝五番蔵の見学にも
多くのお客様が参加されました。

普段静かなこの場所が
数多くのお客様で賑わう、
年に一度のひととき。

地域交流の役割を
十分に果たせたようです。

もともとの「蔵開き」は、文字通り“蔵を開く”大切な歳時。

さて、「蔵開き」の歴史は古く、
武家屋敷で甲冑を納めた
長櫃(ながびつ)などを開く
“具足開き”が行われ、
町家や商家では文字通り
蔵を開く“蔵開き”や、
商人が帳簿を新しく綴じる
“帳祝い(ちょういわい)”
が行われました。

この日は“鏡開き”の日
でもあったので、鏡餅を下げて、
家族や使用人と一緒に
雑煮を食べたとされます。

一部では、蔵の神に供える地域も
あったようです。

この「蔵開き」の風習は、
もともと1月20日に
行われていたのですが、
江戸時代の第3代将軍・徳川家光の
忌日(きにち)ということで、
1月11日に改められました。

松の内を過ぎた年初の吉日に
「蔵開き」を行う
地域もあるようです。

農家でも“田打ち正月”“鍬始め”
などの儀礼が行われる
大切な日に位置づけられていました。

その一方、地域によっては、
長く続く酒蔵の「蔵開き」の歴史
もありますが、
一般的に酒蔵の「蔵開き」は、
わりと最近になってからのことです。

これは微生物による醗酵
という工程を経る酒造りの蔵に、
ほかからの雑菌の持ち込みを懸念
したのと、神聖な現場に
一般人が立ち入るのを
禁じたこともあります。

しかし近年になり、酒蔵の衛生管理が
科学的に行われるようになり、
地域交流の意味もあって、
「蔵開き」といえば、この時期に
全国的に開催される日本酒の「蔵開き」
を指すようになりました。

生活スタイルが変化し、蔵があるのは
地方都市の旧家くらいのもの。

そんな時代の変化の中で、
“蔵”を有する酒造は、
これから先ずっと「蔵開き」の伝統を
続けていくことになるでしょう。

そんな思いがよぎるほど
盛況だった今年の「蔵開き」でした。

美味しい日本酒づくり…「二十歳の山田錦物語」第三章、醸造体験。

初めての醸造体験は、見ること聞くこと初めて尽くし。

昨年6月の田植えにはじまり、
10月の稲刈りを終えた
「二十歳の山田錦物語」
プロジェクト。

今年度に20歳を迎える
農学や醸造学を学ぶ大学生約20名が
“山田錦(酒米)を植え、
収穫した酒米で日本酒を造り、
販売までを実践する”
という産学連携の取り組みです。

10月に刈り取られた酒米は、
精米歩合39%まで磨かれます。

たとえば、米が100kgある
とすると、雑味の原因となる
表面の脂肪やタンパク質を削り取り、
39kgにまで磨き落とされる
ということを意味しています。

その後、仕込みがはじまるまで
調湿されます。

そしていよいよ、
醸造体験当日の1月19日(日)です。

精米された山田錦は、洗米、浸漬
(しんせき/一定時間、水に浸す)
され、水切りの後、蒸米工程へ。

ここで大切なのは、米を“炊く”
のではなく“蒸す”ということ。

高温の蒸気で蒸すことで、
“外硬内軟(がいこうないなん)”
という、外は硬く、内側は軟らかく
溶けやすい状態になり、
麹菌が繁殖しやすくなります。

そしていよいよ、
学生たちの作業がスタートします。

蒸した酒米を床に薄く広げる
放冷工程で、粗熱をとります。

蔵人に習って
できるだけ薄く広げていきます。

冷たい空気に晒すことで
冷却すると同時に、
水分が蒸発する際に熱が奪われて
冷却される仕組み。

次に体験したのは、
タンクで醗酵がすすむ生酛を
撹拌する“櫂入れ”作業に
2人ひと組で挑戦。

仕込み日ごとに並べられた
タンクの中は、灘酒の代名詞
ともいえる“宮水”や米麹、蒸米が
融け合った“生酛”が醗酵を続けています。

簡単そうで、手にかなりの
負担がかかる力作業です。

作業ごとに設けられたスペースを
移動する中、何より驚くのは、
酒蔵全般にわたって年季の入った
道具類が整然と並んでいること。

厳冬期特有の
ピンとはりつめた空気と相まって、
脈々と受け継がれてきた技術や伝統と
微生物に対する畏怖の念を感じ、
背筋が伸びる思いです。

 

 

お酒の仕込みは体力勝負。あえて昔ながらの手作業で行われました。

午後からは、約36℃の部屋で
“床もみ(とこもみ)”工程。

まずは塊になった蒸米を手のひらで
、ひと粒ずつにばらします。

この作業の難しいところは、
米をつぶさず、ばらけさせること。

ある程度ばらけたところで、
薄く広げ、麹菌の胞子を散布。

蒸米ひと粒ひと粒に
麹菌の胞子がまんべんなく
付着するようにもみ込みます。

作業の途中で、
菌糸がしっかり米に定着するまで、
静かに待機する様子は、
“美味しくなる”儀式のようで、
神々しさすら感じました。

現代の酒造りは科学的に管理
されていますが、今回のあえて
昔ながらの道具を使って、
昔ながらの手法での酒造り体験は、
学生たちにとってかけがえのない
時間となったようです。

作業を終えた学生たちは、
“自分たちがつくったお米が日本酒
になるのは、ホントに楽しみ”
“かなりしんどかったけど、
久しぶりにいい汗をかいた”
と、貴重な経験を通して、
やり遂げた感の笑顔で仕上がりへの
期待感もいっぱいの様子でした。

「二十歳の山田錦物語」の
完成試飲会は3月1日の予定。

酒質は、精米歩合39%の純米大吟醸酒
しぼりたて無濾過原酒です。

学生たちが田植えをし、稲刈りをした
“兵庫県三木市吉川「嘉納会」
特A地区産山田錦100%使用”
という文字が記されています。

限定生産なので、
早目のご購入をおすすめするとともに、
乞うご期待です。