お酒の体系は、ひとつの流れに。

 

酒類の根っこは、醸造酒にあり。

酒類は、その製造方法によって

大きく「醸造酒」「蒸留酒」の2つに分類され、

そこに手を加えた「混成酒」が位置づけられます。

 

  • 醸造酒…穀物や果実を酵母によってアルコール醗酵させて造った酒

日本酒、ビール、ワイン、紹興酒など

  • 蒸留酒…原料を醗酵させた醸造酒を、さらに蒸留して造った酒

ウイスキー、ブランデー、焼酎、ウォッカなど

  • 混成酒…醸造酒や蒸留酒に、果実や香料、糖質を加えた再製酒

梅酒、リキュール、シェリー酒など

 

おおまかによく例えられるのが、
ホップを加えていないビールを
蒸留したものがウイスキー、
ワインを蒸留したものがブランデー、
日本酒を蒸留したものが米焼酎です。

これは、あくまで原材料ベースの理論上のお話で、それぞれの酒類製造には、ぎゅっと濃縮された研究成果が詰め込まれて個性あるお酒が造られています。

「蒸留酒」は、水とアルコールの沸点の違いを利用して、純度の高いアルコール成分を抽出したお酒です。
まず、醸造後に加熱して、水よりも沸点の低い(約78℃)アルコール成分のみを蒸発させます。
この蒸気を集めて冷やし、アルコールを多く含んだお酒を抽出するのが蒸留工程です。
そのため、一般的に醸造酒よりアルコール分の高いお酒が多いとされ、有名な蒸留酒の中にはアルコール分95%以上というものもあります。
アルコール分を高めるため、蒸留工程を70回以上繰り返しているとのこと。
高いアルコール分を造り出すための、蒸留工程の多さに圧倒されるばかり。

 

まず、醸造酒が造られてから、

蒸留酒になり、

また混成酒もそこから生まれると考えると、

酒類の源流は醸造酒にあるようです。

 

世界中に類を見ない複雑な製造工程、それが日本酒。

ひとくちに「醸造酒」といっても、
醗酵工程がそれぞれ異なります。

ワインは「単醗酵」、
ビールは「単行複醗酵」、
日本酒は「並行複醗酵」
の製造工程を行っているのが
大きく違うポイントです。

ワインの原料となるブドウには
単糖類が含まれているので、
糖化工程が不要。
そのまま酵母を加えて醗酵させ、
ワインを醸造します。
ビールは澱粉を糖に分解する糖化と、その糖を酵母により発酵させる工程を別々に進行させます。

そして日本酒。
原料となる米には糖分が含まれていないため、麹の酵素を利用して、米の澱粉をブドウ糖に“糖化”させるのと同時に、酵母の働きによりブドウ糖をアルコールに変化させる“醗酵”を同じタンク内で並行して行っています。
そのため、日本酒の製造工程は、世界中に類を見ないほど、複雑で高度な技術を要するといわれるほど。

フランスやイタリアのワイナリーから、その複雑な日本酒の醸造を学びに来日し、技術水準の高さに惚れ込んで、杜氏になった外国の方もいるとのこと。

“技術者”の揺るぎない探究心は国境を越え、本質に迫る…
そこに新しい伝統が生まれる足音が聞こえてきます。

ためになる“くだらない”お話。

上方から江戸に送られた“下り酒”が語源という説。

普段、私たちは、
“とるに足らない”とか
“ばかばかしい”
という感情を表す際に、
“くだらない”という
単語を使います。

しかし、その語源となると、
あまりご存じないのでは
ないでしょうか。

“通じる”という意味を持つ
「下る」という動詞に、
打ち消しの助動詞
「ぬ」や「ない」がついて、
「意味がない」「筋が通らない」
などの意味となり、
それが転じて
“とるに足らない”場合に
使われるようになった
という説があります。

ただ、これではあまりに
夢がありません。

これとは別に、
有力な説とされているのが、
お酒にまつわる由来です。

江戸時代のこと。

大坂や京都などの
“上方”と“江戸”との間で、
特産品などが行き来していました。

当時、上方から江戸に
送られてくるものを
「下りもの(くだりもの)」と呼び、
逆に江戸から上方に送られるものは
「登せもの(のぼせもの)」
と呼んでいました。

これは朝廷のある京都が
千年の都であるのに対して、
幕府がある江戸は
まだまだ発展途上の新興の地方都市
とされていたため、
上方方面に向かうことを“上る”、
江戸方面に向かうことを“下る”
としたことに由来します。

とはいえ、江戸は人が多い一大消費地。

上方の洗練された品々はその品質で、
江戸の庶民を魅了し、
その需要に応えるかのように、
上方から数多くの品々が
江戸に送られました。

なかでも、灘を筆頭に
伊丹や伏見の清酒は
「下り酒」と呼ばれ、
たいそう重宝されたといいます。

江戸側の
“江戸のお酒は、下り酒に対して、
くだらない”
という自重気味の皮肉、
または上方側の
“下り酒の名を落とすような、
くだらないものは送れない”
という心意気から派生したのが
“とるに足らない物の代名詞”となる
「くだらない」という言葉
といわれています。

 

 

樽廻船の停泊港が近い、灘に地の利あり。

江戸の人々のもとに
「下り酒」を運ぶためには、
安定した輸送手段が必要です。

いまでこそ網の目のように
輸送網が張り巡らされていますが、
昔は東海道を往来する陸路が中心。

馬の背に荷物をくくりつけ、
江戸に向けて運んでいました。

これでは輸送量も少なく、
何より時間がかかります。

やがて、
海路を使った輸送がスタート。

堺商人が紀州の廻船を雇い入れ、
江戸へ回航させたのが
「菱垣廻船(ひがきかいせん)」
です。

ときは1620年(元和)頃、
徳川秀忠・家光の時代。

酒や木綿、油、醤油、砂糖など
さまざまな生活物資を大量に運ぶ
海の大動脈となりました。

ところが、
この輸送方法が定着するとともに、
海難事故や荷物の抜き取りなどの
不正も横行。

それを阻むために、
1694年(元禄7年)に
塗物店組・釘店組・内店組・通町組・
綿店組・表店組・川岸組・紙店組・
薬種店組・酒店組の10組からなる
「江戸十組問屋」を結成。

大坂でも同じような組織が結成され、
事業は問屋によって
掌握されることになります。

1730年(享保15年)には
酒問屋が独立して、
清酒だけを運ぶ
「樽廻船(たるかいせん)」が登場。

菱垣廻船は
さまざまな積み荷を混載するため、
早く輸送したい酒荷のみの専用海路
を設けた方が効率的などの理由
による樽廻船のスタートです。

時代によって
多少の変動はあるものの、
下り酒の7〜9割は、
伊丹や灘の周辺地域で産した
「摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)」
と呼ばれるお酒で、
その歴史の流れは
灘五郷にたどり着きます。

水戸光圀公が
“助さんも、格さんも、
一杯お飲りなさい。あっあっあっ”
と差し出すお酒、
暴れん坊将軍で有名な
八代将軍・徳川吉宗が
貧乏旗本の徳田新之助として、
北町奉行・遠山金四郎が
遊び人の金さんとして、
街道沿いの酒場で酌み交わす酒など、
どれもこれも「下り酒」、
とりわけ灘の酒なのかもしれません。

時代に寄り添った
“くだらない”お話は、
大きく想像をかき立ててくれます。

土用の“う”。

 

「土用の丑の日」には、“う”のつく食べ物を。

土用といえば、“丑の日”“うなぎ”と即答されるほど、「土用の丑の日」は、私たちの暮らしにとけ込んでいます。
毎年この時期になると、うなぎを取り扱っているお店の店頭にうなぎが並び、テレビのニュースや新聞などで、夏の到来を告げる風物詩として必ず取り上げられます。

昔の風習のひとつに、「丑の日に“う”のつく食べ物を食べると夏バテしない」という言い伝えがありました。
現在も“食が細くなりがちな夏場の栄養補給”を諭す暮らしの知恵として、この言い伝えは根強く残っています。
その代表格の“うなぎ”はもちろんのこと、“うどん”“瓜”“梅干し”などはサッパリとして胃にやさしく食欲を増進させる食べ物として好まれています。昔はほとんど口にすることがなかった“馬肉(うま)”“牛肉(うし)”も、夏バテした身体にスタミナを補うためにオススメの食材。“う”はつきませんが、昔から「土用しじみ」も腹の薬として重宝されていました。

さて、この時期の食材の独壇場といえるうなぎですが、“土用の丑の日に、うなぎを食べる”ことを広めたのが、江戸時代の蘭学者、平賀源内であるというのは有名なお話。
“夏に売り上げが落ちる”と、うなぎ屋から相談を受けた平賀源内の助言により、

「本日丑の日」
土用の丑の日 うなぎの日
食すれば夏負けすることなし

という看板を店先に立てたところ、お店は大繁盛。ほかのうなぎ屋もその真似をするようになり、次第に江戸庶民の間に“土用の丑の日に、うなぎを食べる”という習慣が根付いていきました。いまでいう広告宣伝のはしりとされています。

実際、うなぎにはビタミンAやビタミンB群、ビタミンDなど、疲労回復や食欲増進に効果的な成分が多く含まれ、夏バテ防止にはピッタリの理に適った食材。
ちなみにうなぎの旬は、冬眠間近で養分をたっぷり蓄えた晩秋から初冬にかけて。
栄養価で夏、食通としては冬がオススメ。

 

 

土用は年4回。2018年の「土用の丑の日」は年7回。

「土用」とは、古代中国の五行思想で説かれている“万物は木、火、土、金、水の五種類の元素からなるという自然哲学の考え方”に基づいて定められたものです。
「春=木」「夏=火」「秋=金」「冬=水」が割り当てられ、あまった「土」は、季節の変わり目となる直前の約18日間が割り当てられます。
これを「土用」といい、年に4回の土用があります。
一般的にいわれる「土用の丑の日」は、夏の「土用の丑の日」を指しています。

【2018年の節目の日と土用】
・立春( 2/7)… 1/17〜2/3
(冬の土用…丑の日は1/21・2/2の2回
・立夏( 5/5)… 4/17〜5/4
(春の土用…丑の日は4/27の1回)
・立秋( 8/7)… 7/20〜8/6
(夏の土用…丑の日は7/20・8/1の2回)
・立冬(11/7)… 10/20〜11/6
(秋の土用…丑の日は10/24・11/5の2回)

※立春や立夏などの節目の日は、
年によって異なります。

「丑の日」は十二支の「丑」です。
一年ごとに、干支の十二支が決まっていますが、日にちにも「子・丑・寅・卯…」の順に十二支が当てはめられ、12日間で一周し最初に戻ります。

私たちが、“うなぎを食べる日”と認識している、夏の「土用の丑の日」は、7月20日(金)、8月1日(水)の2度あります。
それぞれ「一の丑」「二の丑」と呼びます。

暑い夏の日、暑気払いのうなぎを肴に、冷酒を一杯。なかなかオツな至福のひととき。

旨さを保つ “酒類保管けいかく”。

 

 

日本酒の指定席は、冷暗所に。

日本酒の保管の大切なのは、
日本酒のラベルに記されている
“直射日光を避け、
冷暗所で保管してください”
“開栓後は特にお早くお飲みください”
というポイントです。

まず“直射日光を避ける”ということ。
多くの日本酒の瓶が茶色や緑色なのは、光を遮って、お酒の質を変質させないためです。

直射日光の紫外線があたることによる、不快な「日光臭」が生じるのを防いでいます。
ここ最近、透明や白、青などの瓶が増えているのは、物流や販売店の管理状況が格段に良くなったことで、以前のように遮光性に気を遣わないでもいい環境が整ったためです。
その分、お酒の特徴やイメージなどを表す色はもちろん、デザイン性の高い瓶が店頭に並んでいます。夏の冷酒は涼感を感じさせる緑や青の瓶、繊細な味わいのお酒にはつや消しの白い瓶など、日本酒も味や香りに加え、“目で楽しむ”時代になったということです。

つぎに“冷暗所での保管”。
日本酒に限らず、酒類は時間経過とともに熟成します。
その熟成の速度に大きく影響するのが、保管時の温度です。
直射日光があたる場所は光だけでなく、瓶内温度も高くなるのでもってのほか。キッチンやカウンター下の棚、押し入れやパントリー(食材保管スペース)などの、比較的暗く温度の低い場所なら十分。
蔵元としては、出荷時の品質を保つために、4〜5℃前後をキープできる冷蔵庫がオススメです。

最後に“開栓後は早く”。
これは空気に触れた瞬間から酸化によって風味が落ちはじめるので、美味しいうちに、できるだけ早く飲んでくださいという配慮です。
また、日本酒の保管はタテ置きが原則。ヨコ置きにすると、お酒がフタに触れたり、空気と触れる面積が広がり、いずれも酸化が進むことにつながるからです。

 

日本酒に賞味期限の記載はありません。

日本酒に記載されているのが「賞味期限」ではなく、「製造年月」ということにお気づきですか?
蔵元は仕込み終わった酒を、繊細な温度管理などによってしばらくタンクで熟成させ、そのお酒に望む味や香り、風味、コクなどを整ったタイミングで出荷します。
アルコール成分が多く含まれているため、時間経過による腐敗ではなく、劣化もしくは熟成ととらえるため、賞味期限がないということになります。たとえば、ワインなども熟成が進んだ100年ものなどが重宝されるのと同じこと。蔵元が想定できないほど長く放置されたお酒は、熟成というよりは“老ね(ひね)”と呼ばれる劣化した状態になります。

賞味期限は記されていませんが、お手元に届いた日から約1ヶ月程度が美味しさのピークと思って、プロがオススメする味を心ゆくまでお楽しみください。

お中元は、気持ちを贈るつもりで。

「お中元」は、厳密には7月15日のこと。


年二回、お中元とお歳暮は、
いつもお世話になっている方々に対して
感謝の気持ちを伝える絶好の機会です。

面倒くさいなどと思わず、
お世話いただいた方やそのご家族の喜ぶ顔を思い浮かべながら、
贈る品を選ぶことが
心豊かなひとときを育んでくれます。

そろそろお中元の時期、
お世話になった“あの方々”への
感謝の心を贈る準備は調っていますか?

日本の慣習、風習として
日常の暮らしに根付いているお中元ですが、
いつ頃から行われ出した慣習なのか、
その起源など、意外に知られていません。

お中元の起源は、はるか古代中国にまでさかのぼります。

中国の道教で、
正月15日を「上元(じょうげん)」と呼び
“天神様”を、7月15日を「中元(ちゅうげん)」と呼び
“慈悲神様”を、10月15日を「下元(かげん)」と呼び
“水と火の神様”を、それぞれ祀っていました。

この三つをあわせた「三元」が、一年の節目です。
このうち中元が、先祖の霊を供養する盂蘭盆会(うらぼんえ)と
結びついたとされています。

 

贈る時期には、地域差があります。


日本に伝わった時期に関しては、定かではありません。

中国から伝播した遠い昔は、
お盆とお中元の行事が、同じ日に行われていました。

室町時代になり、
お盆が“死者を迎えて、その魂を供養する”のに対し、
お中元は“生きていることを喜び、無事を祝う”という行事
に分かれていきます。

お中元の日には、
親戚や知人の家を訪ね、
お互いの無事を喜ぶようになりました。

江戸時代になって
その風習はさらに盛んになり、
交際範囲の広い人は、
中元の日の前後に贈り物をしたり、
手土産を持って挨拶に行くようになります。

そして、明治維新以降は、
7月上旬頃から使者が贈り物を届けて礼をつくす…
という現在のスタイルが生まれました。

この長い変遷の中で、
いつしかお届けする贈り物自体を
「中元」と呼ぶようになっていきました。

お中元は、相手先の住まれている地域によって時期が異なります。

・東日本(東北・関東・北陸)…7/1~7/15
・西日本(東海・関西近畿・中四国・九州・例外的に北海道も)…7/15~8/15

地域差があるのは「お盆の期間」の違いです。
相手先の住む地域の時期にあわせるのが好ましいですが、
それほど神経質になる必要はありません。

もしお中元の時期を過ぎてしまった場合は、
表書きを変更しましょう。

・ 東日本…7/16~立秋(8/7頃)までに届けられる場合「暑中御見舞」、
それ以降「残暑御見舞」
・ 西日本…8/16以降に届けられる場合「残暑御見舞」

長い間ご無沙汰していて、
お中元を送ることで、
お互いの無事を確認する方も多くいらっしゃいます。
昔のようにお隣付き合いの機会が減っているいま、
心を通わせる風習はずっと続けていきたいものです。