「冬至」には、柚子湯、かぼちゃ、“冷酒”で招福祈願を。

「冬至」の勘違い。そして、ひと足早く、ご来光の時間を知っておきましょう。

2022年は、
クリスマスの直前の12月22日が
二十四節気の「冬至」です。

「冬至」というと、
“1年で一番昼の時間が短く、
一番夜の時間が長い日”
ということで
一般的には知られています。

よく耳にするのが、
「冬至」は“日の出が一番遅く、
日の入りが一番早い日”
という勘違い。

今年の「冬至」を例にとって
考察してみましょう。

まず「冬至」の日、
東京エリアの日の出は
6時48分(大阪は7時1分)で、
日没は16時32分(大阪は16時51分)
と発表されています。

1年で一番
日の入りが早いのは12月6日。

二十四節気の「冬至」の2つ前の
「小雪(しょうせつ)」最終日で、
翌日が「大雪(だいせつ)」の日です。

東京エリアの日没は
16時28分(大阪は16時47分)で、
「冬至」より約4分早く日が暮れます。

一方、
1年で一番日の出が遅いのは、
年が明けた1月7日で、
二十四節気の「冬至」の次にあたる
「小寒(しょうかん)」になってからで
東京エリアの日の出は6時52分
(大阪は7時6分)。

つまり、12月6日をピークに
日没時間は遅くなり始めますが、
日の出時間は
「冬至」を過ぎても遅くなり続け、
翌年1月7日を境に日の出が早くなり、
日の入り、日の出時間から割り出した
昼の時間がもっとも短いのが
「冬至」ということです。

せっかくなので、
9日後に迫った
初日の出の時間について
ご紹介しておきます。

日の出の時間には
緯度と経度が深く関係しており、
地軸が傾いているので
季節によっても異なります。

1月は、
“同じ緯度なら東の方が早い”
“同じ経度なら緯度が低い方が早い”
という日の出の時期。

つまり、
南東の方が早く夜が明ける
ということになります。

北海道の東端である
納沙布岬の日の出は
6時49分ですが、
経度が“約5°”西に位置する
千葉県の犬吠埼は緯度が低いため、
6時46分と、
わずかに早く夜が明けます。

ちなみに
北海道、本州、四国、九州の
“平地”で一番早く
ご来光が拝めるのが、
この犬吠埼です。

さらに、深く関係するのが標高。

これは、地球が球体なので、
高いところほど
日の出が早く見える
ということです。

千葉県鴨川市の
標高337mの清澄山山頂からは
6時44分、
清澄山から西に約75kmの
東京スカイツリー天望デッキ
(地上350m)からだと6時46分に
ご来光が拝めるそうです。

あとは、
元旦の晴れわたった空を願うばかり。

「冬至」に“柚子湯に浸かる”“かぼちゃを食べる”のには、ちゃんとした理由が。

「冬至冬中冬始め」
という言葉があります。

これは、
“暦の上では、
冬至は冬の真ん中にあたるけれど、
実際には、
本格的な冬の厳しい寒さの
始まりを告げる日”
ということを
言い表した言葉です。

古来、「冬至」の特徴でもある、
1年で一番夜が長いということは、
信仰の対象で生命の象徴ともされる
“太陽”の力がもっとも弱くなる日で
死にもっとも近い日
と考えられていました。

しかし、この「冬至」を境に
昼夜の時間が一転する
折り返しの節目の日ともされ、
“一陽来復(いちようらいふく)”
という、
良くないことが続いた後に
良いことが巡ってくる日
とも考えられていたようです。

また、
福に転じるみそぎの意味を持って
浸かったのが“冬至風呂”で、
今でいう“柚子湯”。

柚子にはビタミンCが多く含まれ、
柚子の香りにはリラックス効果、
そして温まることで
血行促進の期待も高まります。

“柚子湯”は
江戸の風呂屋がはじめた習慣で、
「冬至」は“湯治”、
「柚子」は“融通が利く”
というシャレの効いた触れ込みが
江戸っ子に人気だったとのこと。

また、風呂を上がったら、
“かぼちゃを食べる”のが
「冬至」のしきたり。

農作物がとれない冬場に保存が利く
“かぼちゃ”は
栄養価の高い食材でした。

免疫効果の高いカロテンや
内臓を守るビタミンB群、
身体の塩分の排泄を促すカリウム、
整腸作用に効果の高い食物繊維など、
長年にわたる生活の知恵として
“かぼちゃ”は重宝されました。

これ以外にも、
“と”や“ん”のつく
食べ物を食べるのが良いとされ、
唐辛子や豆腐、みかん、
こんにゃく、れんこんなど、
身体を芯から温める作用のある
食べ物を摂って風邪や冷え対策を
行っていたといいます。

寒い時期ですが、「冬至」に
“冷酒”を飲む風習もあったとのこと

そこには、
“冷酒”で身体を清めるとともに、
風邪を引かない身体を願った
という理由があるそうです。

そういえば、
日本酒にも“ん”がついています。

今年の「冬至」は、
キリッと冷やした旨い日本酒で、
1年の垢をスッキリと落として、
映えある新年をお迎えください。

「しめ縄」と「しめ飾り」は、似て非なる役割を持ちます。

「しめ縄」の起源は、あの有名な天の岩戸の神話から。

年内にしておく正月準備のひとつに
「しめ飾り」があります。
「しめ飾り」は、門松や鏡餅と同じく
お正月に年神様をお迎えする
「正月飾り」のひとつで、
「しめ縄」を縁起物で
飾り付けたものが「しめ飾り」です。

この「しめ縄」の起源は、
神話の時代へと遡ります。

古事記に、
次のお話が記されています。

“太陽の象徴である天照大神
(あまてらすおおみかみ)は、
弟である須佐之男命
(すさのおのみこと)の日頃の
粗暴な振る舞いに怒り、
天岩戸に引き篭もってしまい、
太陽が隠れたことで、世の中は
暗闇に包まれてしまいました。

困った八百万の神は天照大神を
岩屋から連れ出すために、
岩戸の前で宴を開き、
酒を酌み交わし、踊り、
大騒ぎの毎日。

世の中は闇に包まれているはずなのに
なぜ騒がしいのかと顔をのぞかせた
天照大神を岩戸から連れ出して、
再び隠れないように、
岩戸を縛ったのが
「しめ縄」でした”と。

このお話が伝わって以降、
「しめ縄」は、神の領域と現世を隔て
神様の領域を守る結界として
認識されるようになりました。

そういう意味で、「しめ縄」は
神様が宿る場所として、
1年を通して神棚に飾るものなのです。

また、神社などでも「しめ縄」は、
通年を通して神様の通り道に
飾られています。

日本国内最大クラスを誇るのが、
島根県の「出雲大社神楽殿」の
全長13.6m、重量5.2tの
「大しめ縄」です。
茨城県の「常陸国出雲大社」や
福岡県の「宮地獄神社」の
「大しめ縄」も引けを取らない
大きさを誇っています。

この三社の「大しめ縄」は、
全国でもずば抜けて大きく、
その丁寧な仕事ぶりは
芸術作品のようで、甲乙付け難い
荘厳な佇まいが魅力です。

八百万の神が集まるとされる
島根県の「出雲大社」では、
この「大しめ縄」が
数年ごとに架け替えられます。

その制作を担うのは、
出雲大社から南下すること約30kmに
位置する飯南町(いいなんちょう)。

1年以上もの歳月をかけて、
のべ1000人以上もの町民の手に
よってつくられ、奉納されます。

材料となる稲藁は色艶が美しく
背丈の高い品種で、
「大しめ縄」用に特別、
稲穂が実る前の
青々とした状態で収穫。

代々受け継がれる独自の技術で
藁をしっかりと束ねる地道な
手作業の繰り返し。

その藁束を重ねて固く締めながら
徐々に太くし、菰に包み込んで、
直径1mを超える大縄が仕上がります。

また、「大しめ縄」に取り付ける
飾りとなる円錐形の
“〆の子(しめのこ)”や、
“大しめ縄”を支える“吊り木”も
強度に優れた樹齢150年以上の
ヒノキを切り出します。

これらのほとんどが
手作業というから驚きです。

ここ「出雲大社」だけでなく、
他の社でも同じような
手作業によって「大しめ縄」が
つくられているのです。

「しめ飾り」を飾るタイミング、ご存知ですか。

一方、「しめ飾り」は、
正月に年神様を迎え入れる場所に
願いを込めて飾るもので、
年神様をお迎えする玄関に
飾るのが一般的です。

「しめ飾り」に飾られた縁起物には、
それぞれ意味があります。

大きく左右に広がっている
“裏白(うらじろ)”は、
二つの葉が夫婦円満の意味を持ち、
葉の裏が白いことから
清らかな心を表現。

“ゆずり葉”は、新しい葉が
伸びてくると古い葉が黄色くなって
落葉する様から、次の世代に
譲ることを連想させます。

“橙(だいだい)”は、
一度実ると何年も落ちずに、
ひとつの木に何代にもわたる
橙の実が生ることから、
一族の代々繁栄を表します。

“紙垂(しで)”は、
折り重ねられた白い紙のことで、
神聖な場所を区切る意味を持ちます。

さて、「しめ飾り」を
飾るタイミングですが、12月13日の
“正月事始め”以降であれば、
いつ飾っても問題はありませんが、
クリスマスを過ぎたあたりから
飾るご家庭が多いようです。

とくに、末広がりの
“八”が入っている12月28日は
縁起が良い日とされます。

12月29日は、二重苦につながり、
葬式と同じ一夜飾りになる
12月31日に飾るのは
避けた方がいいようです。

「しめ飾り」をはじめとする
「正月飾り」は松の内
(関東、東北、九州は1月7日/
関西は1月15日)明けた後、
神社に奉納して処分。

多くの神社では、
どんどん焼きや左義長と呼ばれる
火祭りを行なっているので、
そこでお焚き上げを
してもらいましょう。

ゴミとして処分する場合は、
塩やお酒で清めた後、
半紙で包むなどして、
他のゴミと袋を分けて
処分してください。

年末も押し迫った頃に慌てて
「しめ飾り」を買うという
ご家庭も多いかと思います。

本来の年神様をお招きする
目印であるという「しめ飾り」の
本来の役割を心に刻んで、
選んでみてはいかがでしょうか。
来年こそ、
大きな福が舞い込むかもしれません。

「正月事始め」の主行事が“煤払い”。東西両本願寺の“煤払い”は圧巻です。

年末恒例の“煤払い”は、長年続く伝統行事。

年末のニュースで、
京都の東本願寺、西本願寺の
“煤払い(すすはらい)”
の様子が流れてくると、
“もうそんな時期か”と、
年の瀬を実感。

というのも、
新しい年まであとわずかとなり、
僧侶達が掃除をしている姿を見て、
大掃除をしなくてはという思いに
なる方も少なくないようです。

東本願寺、西本願寺の
“煤払い”の歴史は古く、
室町時代の浄土真宗中興の祖とも
称される蓮如の頃から
500年余り続く伝統の行事です。

戦国時代、蓮如によって
建立された石山本願寺は
難攻不落の砦とされていましたが、
織田信長によって10年以上
攻め続けられ、和睦か、そのまま
戦うかの議論が対立を生み、
宗派内は完全に分裂状態に。

信長の死後、
秀吉側の西本願寺と
家康側の東本願寺
(正式名称は真宗本廟)が誕生し、
江戸時代の前半頃までは
断絶状態が続きました。

ところが、江戸後期になって
歩み寄りが行われ、現在では、
東西の本願寺は真宗教団連合
という組織で活動する良好な関係が
築かれています。

その両本願寺の広い本堂を
僧侶や門徒たちが行う
“煤払い”ですが、東西で
開始時間やその作法は異なります。

毎年12月20日の午前7時頃に
西本願寺の“煤払い”がスタート。

数百畳もある本堂の畳を、
500人以上もの人によって、
中央から外側に向かって
竹の棒で叩き、
舞った埃を大きなうちわで
外に掃き出していきます。

それから遅れること約2時間、
午前9時頃から東本願寺の
“煤払い”がスタート。

こちらでは、僧侶や門徒たちが
横一列にまっすぐに並び、
端から順に竹の棒と
大きなうちわを持ち、
一斉に畳を叩いて
埃を掃き出します。

西本願寺から東に約1km
(実際には、南下して
七条堀川交差点を左折し、
まっすぐ進んだ後、
烏丸七条交差点を北上)、
徒歩約15分に位置するのが
東本願寺なので、
西本願寺と東本願寺の
“煤払い”を続けて見学する
時間的な余裕は十分にあります。

今の生活では部屋に
煤が溜まることはありませんが、
昔は炊事のときに薪を使い、
照明にろうそくや
行灯を使っていたので、
家の中は煤で汚れていました。

そのため、天井や壁に
煤が溜まりました。

また、神社仏閣などでも、
本堂や本殿でろうそくに火を灯し、
線香を焚くので煤は溜まり、
埃と一緒になった煤汚れを
年末に掃除をするのが
“煤払い”です。

これは、ただ単に
汚れを落とすというだけでなく、
新しい年に福を授けにお越しになる
“年神様”をお迎えするために、
1年の穢れを落として家の中を
清める意味を持っています。

余談ですが、
この煤けて黒くなった
埃の塊を長年放置すると、
精霊を宿した付喪神(つくもがみ)の
“煤わたり”になる
という言い伝えが。

これをモチーフにしたキャラクターが、
人気アニメ「となりのトトロ」の
“まっくろくろすけ”であり、
「千と千尋の神隠し」の
釜爺(かまじい)の下働きで
炭を運ぶ“煤わたり”なのです。

12月13日が暦の上での「正月事始め」ですが、“煤払い”の日付はさまざま。

この“煤払い”と
“松迎え”の行事を行うのが、
「正月事始め」です。

年の暮れに「事始め」を行うのは、
“事”である正月祭事に向けた
準備を“始める”という
意味からきています。

“松迎え”は、“年神様”を
お迎えするための門松にする松、
おせち料理やお雑煮をつくるために
使う薪(たきぎ)を
山に刈りに行く行事です。

この「正月事始め」の日以降、
新年に向けた準備が
始まる日とされます。

「正月事始め」は
旧暦12月13日に行われていたものが、
新暦になってもその日付のままで
行われている風習で、
“煤払い”がこの日の主となる行事。

また、京都祇園の舞妓さんなど、
古いしきたりの業界などでは
年納めの挨拶回りをする大切な日です。

神奈川県の鶴岡八幡宮や
小田原城をはじめ、
全国の数多くの寺社仏閣などでは、
年中行事として12月13日に
「正月事始め」の
“煤払い”を行ないます。

「正月事始め」の起源は古く、
“事八日(ことようか)”という
古の風習の12月8日を正月に向けた
“事始め”としていた習わしを元に、
江戸時代になって以降、12月20日を
「正月事始め」の日と定め、
江戸城の大掃除を行なっていました。

ところが、三代将軍の家光が
12月20日に亡くなったことで、
その命日を避ける意味で、
婚礼以外は吉という
“鬼宿日”である12月13日に。

冒頭で紹介した
歴史のある両本願寺などは、
その長い伝統を続ける意味で、
12月20日に“煤払い”が
行われているようです。

“煤払い”は
“大掃除”に名を変え、
1年の穢れを拭い去って
新しい年を迎えるという考え方が、
いまなお受け継がれています。

普段の掃除では行き届いていない
部屋の隅や棚の奥など、
今年はキレイに掃除をすることで、
気持ち良く縁起の良い
新年を迎えましょう。

早くも「師走」。この時期限定だった「嘉宝」が、12月1日から通年販売に。

12月の別称は、「師走」だけじゃない。風流で粋な表現をご紹介します。

12月になった辺りから
街で聞こえ始める
“もう年末、1年が経つのは早いね”
という言葉。

12月ならではの風物詩ともいえます。

歳をとればとるほど、
1年の短さを実感するのは、
以前にここで紹介した
“ジャネーの法則”で
解き明かすことができます。

50歳の人にとっての1年は
生涯の1/50程度の長さですが、
5歳児にとっては
人生の1/5に感じるという
心理的な感じ方の法則です。

つまり、
5歳児にとっての1年は、
50歳の人が感じる1年の
10倍相当の長さに感じる
ということです。

さて、旧暦の各月を
睦月、如月、弥生…
と数字以外の呼称で呼ぶのを
“和風月名(わふうげつめい)”
といい、現代の数字表記とは
即座に一致しづらい感もあります。

そんななか、
“12月イコール「師走」”
の認知度はとりわけ高く、
もはや一般常識レベルといっても
過言ではありません。

これは、年末になると
テレビなどで「師走」という言葉が
多用されることも
大きく影響しているといえます。

この“和風月名”の起源はかなり古く
日本最古の書籍「日本書紀」には、
2月が“きさらぎ”、4月が“うげつ”
という表記が登場します。

もともと
古代中国から伝わった暦の概念で、
中国月の呼び方で、
2月を如月、5月を皐月、と
“和風月名”と同じ漢字表記が
使われてはいますが、
“和風月名”は
日本独自の呼称のようです。

この「師走」以外にも
梅初月(うめはつづき)、
春待月(はるまちづき)、
三冬月(さんとうづき)、
極月(ごくげつ/きはまりづき)、
窮月(きゅうげつ)、
除月(じょげつ)、
弟月(おとづき/おととづき)、
限月(げんげつ)、
臘月(ろうげつ)など、
実にさまざまな呼び名が。

これらは宮中の歌会で
歌を詠んだ際に、
風流で粋な表現を用いた
名残なのかも知れません。

また、この時期によく使われる
“年の瀬”という言葉があります。

江戸時代頃から
使われ出した言葉です。

ここでいう“瀬”とは、
川の流れが急なところを指す言葉で、
年末に向けて差し迫った
慌ただしい様子を表す言葉として、
こちらも定着しています。

「師走」の語源、私たちが知っている以外の諸説が盛りだくさん。

「師走」という言葉について、
その由来とされているのが
“師馳す(しはす)”です。

12月にお経を読むために
僧侶(師)があちらこちらの家に
馳せ参じている目まぐるしさを
表した言葉といえます。

つまり、“師が馳せる月”が
“師馳す”に転じ、
“馳す”に“走”をあてたもの。

これは平安末期に編纂された
「色葉字類抄
(いろはじるいしょう)」
で紹介された説で、
この語源が、一般的には定着し、
有力とされています。

この語源以外に、
1年の終わりとなる最終月で
年が果てるということを意味する
“年果つ(としはつ)”が変化した
という説があります。

また、同じく1年の終わりの月
ということで四季が果てる月を
意味する“四極(しはつ)”を
語源とする説、
さらに、
1年の最後になし終える
という意味を持つ
“為果つ(しはつ)”
が転じたとされる説、
“成終月(なしはつるつき)”
の略語説、
農作業が終わり、年貢の新穀の
“飲果月(しねはつるつき)”
という説、
稲のない田んぼの様子を表した
“し干あす”説、
“忙し(せわし)”説、
“暫し(しばし)”説など、
紐解いていくと数多くの語源が存在。

そして、現代に当てはめた、
年末に忙しく走り回る
学校の先生の様子を表している言葉
として説明されることもあるようです。

この時期だけの限定出荷で
好評だった純米大吟醸「嘉宝」が、
デザインも一新して12月1日から
通年販売解禁に。

今回から
火入れ回数を減らしているので、
よりフレッシュな美味しさを
お楽しみいただけます。

今年も残すところあとわずか。
やり残したことがあるならば
早目に済ませて、
余裕のある年越しを。

新しい「嘉宝」で、
お楽しみいっぱいの年越し準備を
お忘れなく。

長い伝統の“新嘗祭(にいなめさい)”は、戦後、「勤労感謝の日」に改称。

終戦直後、皇室行事の“祭日”は廃止に。

11月23日は、「勤労感謝の日」です。
第二次世界大戦での敗戦により、
日本に駐留するアメリカを
中心としたGHQ
(連合国軍最高司令官総司令部)の
主導で、新たに日本国憲法が
制定される際に、
それまでの祝祭日の選定の
見直しも行われました。

とくに、日本国民の天皇陛下や
皇室への敬愛の念は深く、
そうした皇室祭祀色を薄める意味で、
1947年(昭和22年)に
皇室祭祀令を廃止。

それまでは、皇室の儀式や祭典の日を
“祭日”とし、祝日とともに
休日とされていたことから、
祝日と祭日を合わせて“祝祭日”と
呼んでいました。

しかし、翌年の1948年(昭和23年)に
「国民の祝日に関する法律」が
制定されて以降は、
“祭日”は改称が行われたり、
廃止となり、
“祝日(国民の祝日)”に統一。

具体的に改称したのは、
四大節(しだいせつ)の
“四方節(1月1日/元旦)”
“紀元節(2月11日/建国記念日)”
“天長節(4月29日/昭和天皇誕生日→
みどりの日→現、昭和の日)”
“明治節(11月3日/明治天皇誕生日→
文化の日)”を始め、
“春季皇霊祭(春分の日)”
“秋季皇霊祭(秋分の日)”、
そして「勤労感謝の日」に改称された
“新嘗祭(にいなめさい)”です。

また、皇室祭祀令に定められていた
“神武天皇祭(4月3日)”や
“神嘗祭(かんなめさい/10月17日)”
などの“祭日”は、
事実上廃止となりました。

さて、“新嘗祭”の改称にあたっては
新穀の収穫への
感謝の日であることから、
“新穀祭”“生産感謝の日”
などの案が検討された結果、
“感謝の日”案が有力に。

その後、より具体的な
感謝を表すという理由で、
“勤労感謝”や“労働感謝”に絞られ
最終的に「勤労感謝の日」が国会で
採択されたという経緯があります。

また“神嘗祭”や“新嘗祭”、
“春季皇霊祭”、“秋季皇霊祭”
などの“祭日”とされていた日は、
古代からの長い伝統行事でも
あったことから、現在も、
改称前の名前で、
皇居内での宮中祭祀、
伊勢神宮や明治神宮を始め、
全国の多くの神社で年中行事の
ひとつとして執り行われています。

「勤労感謝の日」は、日本人が持つ“感謝の気持ち”を表す日です。

「勤労感謝の日」となった
“新嘗祭”は、宮中祭祀のなかでも、
もっとも重要な祭祀のひとつとされ、
天皇がその年に収穫された
新穀(初穂)を
“天神地祇(てんじんちぎ)”に
供えて感謝の奉告を行い、
これらの供え物を神からの
賜り物として天皇自らも
食する儀式です。

“天神地祇”とは、古代の天津神
(あまつかみ/別称、天神)と
国津神(くみつかみ/地祇)を
合わせた言葉で、天や地の神に
供え物をすることを表します。

毎年11月23日に皇居内の宮中三殿の
近くにある神嘉殿にて執り行われ、
全国の神社でも同日に実施。

また、天皇が“即位の礼”の後に
初めて行う“新嘗祭”を、
“大嘗祭(だいじょうさい/
おにえまつり/おおなめまつり)”
といい、平成から令和に元号が
改まった際、“大嘗祭”という
大きなニュース報道として
取り上げられていたことは
記憶に新しいところです。

その年に収穫された新穀(初穂)を
天照大神に奉げる感謝祭にあたる
“神嘗祭”です。

“神嘗祭”は、“新嘗祭”の
約2カ月前の旧暦9月17日に
奉納される行事でしたが、
新暦になって稲穂の生育が
不十分であったこともあって
“神嘗祭”だけ月遅れが採用され、
10月17日に行われています。

世界の「勤労感謝の日」を
英語で表記すると
“Labor Thanksgiving Day”。

これは
“Labor Day(労働者の日)”と
“Thanksgiving Day(収穫祭)”を
組み合わせた言葉とされています。

もともとの“新嘗祭”の趣旨としては
その年の収穫を祝うことが
起源とされる
“Thanksgiving Day(収穫祭)”の
方が近いのかもしれません。

また“Labor Day”は、
どちらかといえば、
働く人の権利を主張する日で、
世界各国で行われている労働者の
“メーデー”の意味合いが
強い日ともいえます。

日本の「勤労感謝の日」に込められた
働く方の勤労に対する感謝を始め、
収穫への感謝、さらには元気で
働けていることへの感謝など、
すべてのことに感謝するという
深い意味を持つ日本独特の日とも
解釈されます。

「勤労感謝の日」は、
それぞれの方を取り巻く
労働環境における感謝の気持ちを
再認識する日といっても
過言ではありません。

この日だけは不満を
口にすることをやめて、
感謝の気持ちで過ごしたいものです。