早くも「師走」。この時期限定だった「嘉宝」が、12月1日から通年販売に。

12月の別称は、「師走」だけじゃない。風流で粋な表現をご紹介します。

12月になった辺りから
街で聞こえ始める
“もう年末、1年が経つのは早いね”
という言葉。

12月ならではの風物詩ともいえます。

歳をとればとるほど、
1年の短さを実感するのは、
以前にここで紹介した
“ジャネーの法則”で
解き明かすことができます。

50歳の人にとっての1年は
生涯の1/50程度の長さですが、
5歳児にとっては
人生の1/5に感じるという
心理的な感じ方の法則です。

つまり、
5歳児にとっての1年は、
50歳の人が感じる1年の
10倍相当の長さに感じる
ということです。

さて、旧暦の各月を
睦月、如月、弥生…
と数字以外の呼称で呼ぶのを
“和風月名(わふうげつめい)”
といい、現代の数字表記とは
即座に一致しづらい感もあります。

そんななか、
“12月イコール「師走」”
の認知度はとりわけ高く、
もはや一般常識レベルといっても
過言ではありません。

これは、年末になると
テレビなどで「師走」という言葉が
多用されることも
大きく影響しているといえます。

この“和風月名”の起源はかなり古く
日本最古の書籍「日本書紀」には、
2月が“きさらぎ”、4月が“うげつ”
という表記が登場します。

もともと
古代中国から伝わった暦の概念で、
中国月の呼び方で、
2月を如月、5月を皐月、と
“和風月名”と同じ漢字表記が
使われてはいますが、
“和風月名”は
日本独自の呼称のようです。

この「師走」以外にも
梅初月(うめはつづき)、
春待月(はるまちづき)、
三冬月(さんとうづき)、
極月(ごくげつ/きはまりづき)、
窮月(きゅうげつ)、
除月(じょげつ)、
弟月(おとづき/おととづき)、
限月(げんげつ)、
臘月(ろうげつ)など、
実にさまざまな呼び名が。

これらは宮中の歌会で
歌を詠んだ際に、
風流で粋な表現を用いた
名残なのかも知れません。

また、この時期によく使われる
“年の瀬”という言葉があります。

江戸時代頃から
使われ出した言葉です。

ここでいう“瀬”とは、
川の流れが急なところを指す言葉で、
年末に向けて差し迫った
慌ただしい様子を表す言葉として、
こちらも定着しています。

「師走」の語源、私たちが知っている以外の諸説が盛りだくさん。

「師走」という言葉について、
その由来とされているのが
“師馳す(しはす)”です。

12月にお経を読むために
僧侶(師)があちらこちらの家に
馳せ参じている目まぐるしさを
表した言葉といえます。

つまり、“師が馳せる月”が
“師馳す”に転じ、
“馳す”に“走”をあてたもの。

これは平安末期に編纂された
「色葉字類抄
(いろはじるいしょう)」
で紹介された説で、
この語源が、一般的には定着し、
有力とされています。

この語源以外に、
1年の終わりとなる最終月で
年が果てるということを意味する
“年果つ(としはつ)”が変化した
という説があります。

また、同じく1年の終わりの月
ということで四季が果てる月を
意味する“四極(しはつ)”を
語源とする説、
さらに、
1年の最後になし終える
という意味を持つ
“為果つ(しはつ)”
が転じたとされる説、
“成終月(なしはつるつき)”
の略語説、
農作業が終わり、年貢の新穀の
“飲果月(しねはつるつき)”
という説、
稲のない田んぼの様子を表した
“し干あす”説、
“忙し(せわし)”説、
“暫し(しばし)”説など、
紐解いていくと数多くの語源が存在。

そして、現代に当てはめた、
年末に忙しく走り回る
学校の先生の様子を表している言葉
として説明されることもあるようです。

この時期だけの限定出荷で
好評だった純米大吟醸「嘉宝」が、
デザインも一新して12月1日から
通年販売解禁に。

今回から
火入れ回数を減らしているので、
よりフレッシュな美味しさを
お楽しみいただけます。

今年も残すところあとわずか。
やり残したことがあるならば
早目に済ませて、
余裕のある年越しを。

新しい「嘉宝」で、
お楽しみいっぱいの年越し準備を
お忘れなく。

長い伝統の“新嘗祭(にいなめさい)”は、戦後、「勤労感謝の日」に改称。

終戦直後、皇室行事の“祭日”は廃止に。

11月23日は、「勤労感謝の日」です。
第二次世界大戦での敗戦により、
日本に駐留するアメリカを
中心としたGHQ
(連合国軍最高司令官総司令部)の
主導で、新たに日本国憲法が
制定される際に、
それまでの祝祭日の選定の
見直しも行われました。

とくに、日本国民の天皇陛下や
皇室への敬愛の念は深く、
そうした皇室祭祀色を薄める意味で、
1947年(昭和22年)に
皇室祭祀令を廃止。

それまでは、皇室の儀式や祭典の日を
“祭日”とし、祝日とともに
休日とされていたことから、
祝日と祭日を合わせて“祝祭日”と
呼んでいました。

しかし、翌年の1948年(昭和23年)に
「国民の祝日に関する法律」が
制定されて以降は、
“祭日”は改称が行われたり、
廃止となり、
“祝日(国民の祝日)”に統一。

具体的に改称したのは、
四大節(しだいせつ)の
“四方節(1月1日/元旦)”
“紀元節(2月11日/建国記念日)”
“天長節(4月29日/昭和天皇誕生日→
みどりの日→現、昭和の日)”
“明治節(11月3日/明治天皇誕生日→
文化の日)”を始め、
“春季皇霊祭(春分の日)”
“秋季皇霊祭(秋分の日)”、
そして「勤労感謝の日」に改称された
“新嘗祭(にいなめさい)”です。

また、皇室祭祀令に定められていた
“神武天皇祭(4月3日)”や
“神嘗祭(かんなめさい/10月17日)”
などの“祭日”は、
事実上廃止となりました。

さて、“新嘗祭”の改称にあたっては
新穀の収穫への
感謝の日であることから、
“新穀祭”“生産感謝の日”
などの案が検討された結果、
“感謝の日”案が有力に。

その後、より具体的な
感謝を表すという理由で、
“勤労感謝”や“労働感謝”に絞られ
最終的に「勤労感謝の日」が国会で
採択されたという経緯があります。

また“神嘗祭”や“新嘗祭”、
“春季皇霊祭”、“秋季皇霊祭”
などの“祭日”とされていた日は、
古代からの長い伝統行事でも
あったことから、現在も、
改称前の名前で、
皇居内での宮中祭祀、
伊勢神宮や明治神宮を始め、
全国の多くの神社で年中行事の
ひとつとして執り行われています。

「勤労感謝の日」は、日本人が持つ“感謝の気持ち”を表す日です。

「勤労感謝の日」となった
“新嘗祭”は、宮中祭祀のなかでも、
もっとも重要な祭祀のひとつとされ、
天皇がその年に収穫された
新穀(初穂)を
“天神地祇(てんじんちぎ)”に
供えて感謝の奉告を行い、
これらの供え物を神からの
賜り物として天皇自らも
食する儀式です。

“天神地祇”とは、古代の天津神
(あまつかみ/別称、天神)と
国津神(くみつかみ/地祇)を
合わせた言葉で、天や地の神に
供え物をすることを表します。

毎年11月23日に皇居内の宮中三殿の
近くにある神嘉殿にて執り行われ、
全国の神社でも同日に実施。

また、天皇が“即位の礼”の後に
初めて行う“新嘗祭”を、
“大嘗祭(だいじょうさい/
おにえまつり/おおなめまつり)”
といい、平成から令和に元号が
改まった際、“大嘗祭”という
大きなニュース報道として
取り上げられていたことは
記憶に新しいところです。

その年に収穫された新穀(初穂)を
天照大神に奉げる感謝祭にあたる
“神嘗祭”です。

“神嘗祭”は、“新嘗祭”の
約2カ月前の旧暦9月17日に
奉納される行事でしたが、
新暦になって稲穂の生育が
不十分であったこともあって
“神嘗祭”だけ月遅れが採用され、
10月17日に行われています。

世界の「勤労感謝の日」を
英語で表記すると
“Labor Thanksgiving Day”。

これは
“Labor Day(労働者の日)”と
“Thanksgiving Day(収穫祭)”を
組み合わせた言葉とされています。

もともとの“新嘗祭”の趣旨としては
その年の収穫を祝うことが
起源とされる
“Thanksgiving Day(収穫祭)”の
方が近いのかもしれません。

また“Labor Day”は、
どちらかといえば、
働く人の権利を主張する日で、
世界各国で行われている労働者の
“メーデー”の意味合いが
強い日ともいえます。

日本の「勤労感謝の日」に込められた
働く方の勤労に対する感謝を始め、
収穫への感謝、さらには元気で
働けていることへの感謝など、
すべてのことに感謝するという
深い意味を持つ日本独特の日とも
解釈されます。

「勤労感謝の日」は、
それぞれの方を取り巻く
労働環境における感謝の気持ちを
再認識する日といっても
過言ではありません。

この日だけは不満を
口にすることをやめて、
感謝の気持ちで過ごしたいものです。

立冬の末節“金盞香(きんせんかさく)”に隠された深い訳。

“金盞香”はキンセンカではなく、「水仙」のこと。

11月17日は、
二十四節気の立冬にあたり、
七十二候では立冬の末節の
“金盞香(きんせんかさく)”で、
期間としては
11月17日から21日の5日間です。

古代中国から伝わった二十四節気が
そのまま使われているのに対して、
二十四節気を5日ずつに三等分した
七十二候は
日本の気候風土や
動植物の変化に応じて、
何度か変更されました。

立冬の末節についても、
平安初期の862年(貞観4年)に
中国から伝わり、それ以降、
823年間にわたって使われた
“宣明暦(せんみょうれき)”では、
“雉入大水為蜃
(雉が海に入って大蛤になる)”
という少々意味が難解なものでした。

江戸時代になり、
五代将軍・徳川家綱のときの
1684年(貞享元年)、
暦学者の渋川春海らによって
改訂された
“貞享暦(じょうきょうれき)”では
立冬の末節は
“霎乃降(こさめすなわちふる)”
へと変更。

“貞享暦”は、
日本人が初めて編纂した和暦で、
日本特有の季節感が
色濃く反映されました。

そして、立冬の末節が
“金盞香”と改められたのは、
1755年(宝暦5年)に改暦された
“宝暦暦(ほうりゃくれき)”。

時代は江戸中期、
九代将軍・徳川家重
のときのことです。

このように改暦に伴って、
古代中国のものを
日本の気候風土に合うように
改訂を重ねた日本独自の
“本朝七十二候”は、
1874年(明治7年)の
“略本歴”に掲載された
七十二候が一般に定着して、
今なお使い続けられています。

さて、“金盞香(きんせんかさく)”
のキンセンカは、私たちの知る
キク科のキンセンカではなく、
「水仙」のことを指します。

“金盞”は花の中央にある
黄色い部分を黄金の杯、
白く広がる花弁を白銀の台に見立てて
“金盞銀台(きんさんぎんだい)”
という別名を持つのが「水仙」です。

開花時期は11月中旬から3月頃で、
冬の厳しい寒さのなか、
雪が残る野山などで
白い可憐な花を咲かせる
凛とした佇まいから
“雪中花”と称され、
お正月の花としても
高い人気を誇ります。

しかし、球根とも呼ばれる鱗茎に
毒素を多く含み、食中毒症状と
接触性皮膚炎などの恐れがあるため、
取り扱いには注意が必要です。

「水仙」の学名は“ナルキッソス”。

ギリシャ神話の、
水面に映った自分の姿に
恋い焦がれているうちに
1本の花になった少年の名前に由来し、
ナルシストの語源になっています。

「水仙」から受けるイメージとは
想像しづらい毒性があり、
楚とした印象とも
異なる名前の由来に、
戸惑いを覚える感じは否めません。

“金盞花”は、ホンキンセンカという諸説も存在。

“金盞香(きんせんかさく)”を
少し掘り下げてみましょう。

宝暦の改暦は、
八代将軍・徳川吉宗の肝いりで
進められた一大事業でしたが、
吉宗や幕府天文方を率いていた
渋川則休(しぶかわのりよし)の
急逝によって一気に失速。

その後を引き継いだ
陰陽師家系の
土御門泰邦
(つちみかどやすくに)
によって“宝暦暦”は完成。

土御門泰邦は、
“貞享暦”が採用されたときに
編暦権限を幕府に奪われ、
それを取り戻そうと画策して
あとを継いだ策士で、
それほど暦に関する
深い知見などはありませんでした。

なので、完成した“宝暦暦”
そのものは、“貞享暦”に
少し手を加えた代物で、
その不完全なできあがりに
課題点も山積。

それでも43年間にわたって
使われました。

改暦を見栄え良く見せるために、
七十二候に大きく手を加えたことも
長く続いた要因のひとつ
といえるでしょう。

当時、“宝暦暦”改暦に
大きく関わった人物で、
暦法や天文に対する
深い知見を持っていた
西村遠里(にしむらとおさと)が
「天文俗談」という書籍で
“金盞香”とは金盞花のことである”
と明記しています。

“金盞花”といえば
ホンキンセンカのことで
“冬知らず”とも呼ばれる
晩秋から咲き始め、
花の少ない冬を通して
咲くこともあって、
大衆に親しまれた花。

ところが、江戸中期に
中国から別の“金盞花”が渡来。

現在も、春先によく見かける、
ポットマリーゴールドや
唐金盞花(トウキンセンカ)という
品種で“時知らず”と呼ばれるほど
“年中咲いている花”
ととらえられた花です。

その草姿の華やかさもあって、
庶民の間で栽培が盛んになり、
もともとのホンキンセンカは
廃れるばかり。

こうした時流の変化に
応じる意味もあって、
風流を好む歳時記の七十二候において
“金盞香”を「水仙」と
位置づけたという解釈も存在します。

“金盞香”という、
わずか3文字の裏側にある
思惑や当時の流行など、
歴史を紐解けば
面白い物語が垣間見えてきます。

美味しさを凝縮した酒蔵の「酒粕」を使った「粕汁」に舌鼓。

「酒粕」は、栄養バランスのとれた機能性食品。

秋の強い日差しも和らぎ、
時折吹く風に肌寒さを
感じるようになったら、秋から冬の
気圧配置に変わり始めた兆しです。

ちょうどこの時期辺りに解禁となる
酒造メーカーの「酒粕」が
大好物の方にとっては、待ちに待った
この上ない季節の到来ともいえます。

日本酒の醸造過程でできる
「酒粕」には、米、麹、酵母由来の
機能性成分が濃縮された状態で
豊富に含まれています。

豆腐の副産物の“おから”に
栄養素が多く含まれ、
バランスのとれた食材とされているのと
同じようなイメージ。

エイジングケアや健康志向が
高まる昨今、
情報番組で身体に良いとされる
さまざまな発酵食品が
取り上げられるなか、
“飲む点滴”ともいわれる
「あま酒」が紹介され、
時期を同じくして話題となったのが
「酒粕」の効能です。

「酒粕」に含まれている栄養素は
実に多く、なかでも注目したいのは、
レジスタントプロテインと呼ばれる
タンパク質。

筋肉などの体組織をつくる一般的な
タンパク質とは異なり、
胃腸では消化されにくい性質があり、
豊富な食物繊維と一緒に、
整腸作用を促します。

それにより余分な脂質の排出を
助けることで、肌荒れ等の原因となる
便秘の解消はもちろん、
ダイエット効果への期待も高まります。

併せて、麹菌の醗酵によって
米のデンプンから生成される
オリゴ糖が腸内細菌を増やすことで、
こちらも整腸作用の期待大です。

また、醗酵によってつくられる
ビタミンB群やアミノ酸が
豊富に含まれているのも
「酒粕」の特徴のひとつ。

ビタミンB1は、
糖質をエネルギーに変え、
疲労回復を図る成分。

美肌効果を期待できるビタミンB2、
酵素の働きを助けるビタミンB6、
エネルギーをつくり、たんぱく質の
代謝に必要なパントテン酸も
多く含有しています。

さらに、肝臓の抗酸化力を高めて、
活性酸素を取り除くとされるペプチド、
肩こりや頭痛、冷え性などの症状を
緩和する血管拡張作用がある
アデノシン、糖の吸収を抑える
難消化性デンプン、
脳梗塞や動脈硬化の原因となる
血栓を溶かすプラスミノーゲンなど、
まさに「酒粕」は、栄養素の
バランスがとれた機能性食品
といっても過言ではありません。

「酒粕」の美味しさを引き立てる、さまざまな料理レシピ。

この「酒粕」を簡単に摂るのは、
やはり「あま酒」です。

水800ccを鍋で沸騰させ、ひと口大に
ちぎった酒粕100gを鍋に入れて
火を止めて、10分ほどそのままに。

鍋の酒粕が柔らかくなったら、
中火にかけて、
酒粕がしっかり溶けるまでかき混ぜ、
沸騰させます。

沸騰したら、砂糖75g(大さじ5杯)と
塩ひとつまみを入れて全体になじませ、
ひと煮立ちしたら完成。

濃いのがお好みなら、水の量を減らす、
甘いのが苦手なら砂糖の量を減らす
など調整して、お好みの味に。

また、「酒粕」を使った
“粕床”でつくる粕漬けもおすすめです。

酒粕500gに日本酒50cc、味噌50g、
砂糖60g(大さじ4杯)、
塩15g(大さじ1杯)を混ぜ合わせ、
清潔な漬物容器に入れます。

その“粕床”に魚や肉、野菜、チーズ
などを漬け込んで、さまざまな
粕漬けを楽しむのも一興。

ポイントは、塩を振った下処理。

塩を振って、素材から出てくる水分を
キッチンペーパなどで拭き取り、
“粕床”に漬け込むことです。

魚や肉は、2〜3日漬け込み、
表面の粕を拭って焼きます。

粕は焦げやすいので、
必ず弱火で調理しましょう。

野菜の塩処理は、
好みの大きさに切った野菜を
ポリ袋に入れ、塩を多めに振った後、
塩が全体に行き渡るように揉み込みます。

こちらは2〜3日冷蔵庫で寝かせて
取り出し、水洗いせずに
キッチンペーパーで
しっかり水分を取ります。

それから“粕床”に漬け込んで
2〜3日が食べごろです。

こちらは火を通さず、
漬物としてご賞味ください。

さらに、「酒粕」レシピで
人気なのは「粕汁」。

関西では冬の定番料理のひとつですが、
それ以外の地域では、
あまり知られていないという話も。

調理法は意外と簡単。

出汁チャンコに
「酒粕」を溶かし込むイメージで、
醤油ベース、味噌ベースどちらも
美味しくいただけます。

ポイントは出汁に「酒粕」を加えて
煮込んだ後、醤油や味噌で
味を整えるだけ。

入れる具材も、魚の切り身や豚肉、
鶏肉に、根菜系の野菜、こんにゃく、
油揚げ、しいたけなどをお好みで。

身体の芯から温まる
コクのある美味しさは絶品です。

いつもの豚汁や鮭の入った
白味噌仕立ての石狩鍋などに
「酒粕」を溶かし込むだけで、
いつもとはひと味違う美味しい鍋に。

この冬、
ぜひチャレンジしてみてください。

日本酒蔵元の「酒粕」は、
限界まで搾ると雑味の要因になるため、
酒米を醸造した時の重量比で約25%。

日本酒のコクや風味がほどよく残った
しっとりとした「酒粕」。

また、「あま酒」も飲み切れる飲料缶で、
お好みに合わせて3種類をラインナップ。

さらに、
「菊正宗 酒蔵のかす汁(関西の味)」は、
お一人様でも楽しめる
野菜を中心としたレトルトの
「粕汁」をご用意しました。

この冬は、いつもと違う
味わい深い美味しさをご堪能ください。

東の「酉の市」と西の「十日戎」。どちらも商売繁盛の願掛け行事です。


早いもので今年もあと2カ月。

ちょっと気は早いですが、
今回は
お正月の縁起物の代表格ともいえる
「七福神」について、
ひと足お先に紹介します。

年賀状の図案モチーフなど、
年に一度、目にする頻度が高まるのが
「七福神」です。

「七福神」は、日本に代々伝わる
七人の神様が宝船に乗って
福を届けにくると思いがちなのですが
日本の神は、
西宮・鳴尾の漁師が
漁業の神様として祀っていた
“恵比寿天”のみ。

平安時代になり、
最澄が比叡山で
インドのヒンドゥー教のシヴァ神を
財福の神“大黒天”として祀り始め、
平安以降に
京都鞍馬で信仰されていた
“毘沙門天”が加わって、
三神信仰がまず定着しました。

“毘沙門天”も
インドのヒンドゥー教の神で、
別名“多聞天”と称される
四天王のひとり。

武将の姿で福を運びます。

鎌倉初期辺りに、
近江・竹生島で信仰されていた
インドのヒンドゥー教をルーツとする
“弁財天”が知恵や財宝、
縁結びの女神として加わりました。

その後、室町時代になってから、
弥勒菩薩の化身ともいわれる
富貴繁栄を司る中国仏教の神
“布袋尊”、
中国の道教にルーツを持つ
長寿延命の神“寿老人”、
同じく道教にルーツを持つ
長寿幸福の神“福禄寿”が加わり、
室町末期にそれらをまとめた
七柱の神仏の集合体である
「七福神」が確立。

江戸時代になって
広く定着していきました。

この七人のメンバーは、途中、
吉祥天やお多福、福助、稲荷神、
猩猩、達磨大師、不動明王などの
別の神と入れ替わることも
何度かありましたが、
結局、もとの七人に戻って
今に至っています。

また、日本の「七福神」に似た
インド起源の「八福神」という信仰が
中国に伝わり、
実在した八人の仙人をまとめた
「八仙」が、
中国各地で信仰の対象として
祀られたといいます。

この「八仙」をモチーフにしたのが、
ジャッキーチェンの出世作「酔拳」。

「八仙」一人ひとりの名を冠した
酔八仙拳を繰り出す様は圧巻で、
日本でも大きなブームを
巻き起こしました。

「十日戎」と「酉の市」。東西の商売繁盛の願掛けは、明確に分かれています。

さて、「七福神」のひとりで、
唯一の日本の神様である
「恵比寿天」は、
いわずと知れた商売繁盛の神様。

毎年1月10日に開催される
「十日戎(とおかえびす)」は、
9日の“宵えびす”、
10日の“本えびす”、
11日の“残り福”の3日間で、
約100万人以上もの人が訪れる神社が
あるともいわれるポピュラーな行事です。

参拝の後、
さまざまな縁起物を吊るした
福笹や熊手を買い、
次の「十日戎」まで
1年間のご利益を願うのが
お決まりの参拝スタイル。

また、全国3500社ある
“えびす神社”を束ねる総本山が
兵庫県の西宮神社で、
酒どころの灘五郷とも深い関係があり
毎年、繰り広げられる
“開門神事福男選び”は、
季節の風物詩として
全国区のニュースになるほど有名。

とはいえ、“日本三大えびす神社”
とされる「西宮神社(兵庫)」や
「今宮戎神社(大阪)」、
「京都ゑびす神社(京都)」を中心に、
かなりの賑わいを見せるのは、
やはり大阪、兵庫、京都に点在する
「えびす神社」のようです。

「十日戎」と同じ意味合いの
年中行事として、
名古屋以東の地域、
とりわけ関東エリアを中心に
商売繁盛を願って行われているのが
「酉の市」です。

全国の鳥信仰のある神社仏閣で
行われている行事で、
11月の“酉の日”に開催されます。

十二支が
“日”に順に割り当てられているので
多いときでひと月に3回
“酉の日”が巡り、
1回目を“一の酉”、
2回目を“二の酉”、
3回目を“三の酉”と呼びます。

昔から“三の酉”まである年は
火事が多いという言い伝えがあり、
今年の11月にも3回“酉の日”がある、
いわゆるあたり年。

11月4日が“一の酉”、
11月16日が“二の酉”、
そして11月28日が“三の酉”に
あたるため、火の元には
十分気をつける必要がありそうです。

「酉の市」で有名なのは、
発祥とされる
大鷲神社(東京・足立区)や
関東三大酉の市に数えられる、
鷲神社(東京・台東区)、
花園神社(東京・新宿区)、
大國魂神社(東京・府中市)と、
どれも東京都内ばかり。

しかし、
大鳥信仰の総本山とされるのは、
大阪・堺の「大鳥神社」というから、
やや不思議な感じもします。

もちろん、
ここでも「酉の市」の賑わいを
体感することはできます。

新型コロナ禍で、
商売は大小に関わらず、
少なからずその影響を受けています。

関東エリアの方は11月の「酉の市」、
関西エリアの方は来年1月の
「十日戎」に出向き、
初心に戻って商売繁盛の願掛けを
行ってみてはいかがでしょうか。