ハロウィンの“ジャック・オ・ランタン”は、カボチャのどの品種?

普段食べているのは「西洋カボチャ」。

秋に旬を迎えた野菜が
スーパーの店頭に出揃い、
その一角で、
いつもより多く
山積みされたカボチャが
ひと際目を引きます。

カボチャは、
大きく3つに分類されます。

普段、食卓に上がるのは、
明治時代に日本に入ってきた
「西洋カボチャ」が多く、
ホクホク、ほっこりとした食感と
強い甘みが特徴です。

戦後になって
洋食が日本の暮らしに定着するのと
同じタイミングで
全国へと一気に広まりました。

また、寒さに強く、
日本の気候風土に馴染んだことも、
広める要因のひとつといえます。

その代表品種は
“えびすカボチャ
(黒皮栗カボチャ)”で
濃緑色の皮に包まれ、
油との相性が良く、
揚げ物に向いています。

“青皮栗カボチャ”は
肉質がやや硬めなので煮物に最適。

“赤皮栗カボチャ”は、
鮮やかな赤味がかったオレンジ色で、
タマネギのような形が特徴。

とくに甘味やホクホク感が強く、
皮が薄いので
そのまま皮ごと食べられるのが
人気のポイントです。

続いて、
「日本カボチャ(東洋カボチャ)」。

日本に伝わった経緯については
諸説ありますが、
室町時代の天文年間
(1532年〜1555年)に、
日本に漂着したポルトガル人が
カンボジアから
中央アメリカ原産のカボチャの種を
持ち込んだとする説が有力です。

一般のスーパーでは
「日本カボチャ」を
取り扱っていないことも多く、
産地地元の直売場や産直品のお店に
足を運べば見つかるかもしれません。

「日本カボチャ」は甘さが控えめで、
ねっとりとした食感が特徴です。

水分を多く含んでいるため、
煮物に向いたカボチャといえます。

皮が黒く、表面がデコボコした
“黒皮カボチャ
(ちりめんカボチャ)”や、
小ぶりで縦溝が深く、
切った断面が菊の花のような
“菊座カボチャ”、
京野菜のひとつで、
ひょうたんの形が特徴的な
“鹿ケ谷カボチャ”などがあります。

そして最後に、「ペポカボチャ」。

変わった形状のものが多く、
食べるより観賞用として
利用される品種が多いのが特徴。

驚くことに、
キュウリの品種だとばかり思っていた
“ズッキーニ”や、
皮をむいて輪切りにして
熱湯で茹でると身がほぐれて
麺のようになる
“金糸ウリ(そうめんカボチャ)”
などの食用以外に、
この時期に話題となるハロウィンの
“ジャック・オ・ランタン”の
材料として利用される
大きなオレンジ色の
観賞用のカボチャが
「ペポカボチャ」に分類されます。

さて、品種や産地によって
やや時期は異なりますが、
カボチャの旬は年に2回あります。

収穫のピークは7〜8月で、
この時期に市場に出回るカボチャは
水分が多く、甘さは控えめで、
ねっとりとした食感。

2回目の旬は、秋から冬にかけて、
夏に収穫したものを
貯蔵して追熟したカボチャで、
甘さが格段に増して、
ホクホクとした食感になります。

ちなみに、
追熟して美味しくなるのは
「西洋カボチャ」と
「日本カボチャ」の品種のみ。

「ペポカボチャ」の品種である
“ズッキーニ”
“金糸ウリ(そうめんカボチャ)”は
収穫したての新鮮なうちに
食べるのがオススメです。

これから冬にかけて、
その果肉が追熟し続けているカボチャは、
どんどん美味しくなっていきます。

煮物や天ぷらなど、
熱燗の肴としては
最高の食材のひとつ
といっても過言ではありません。

菊正宗を代表する「菊正宗 特撰 1.8L」。料理が引き立つ辛口本醸造酒。

“鯖街道”から生まれた、サバの鮮度を美味しく保つ技術。

駆け足で過ぎる秋を美味しくいただくために…サバの歴史ごと、熱燗で一杯。

つい先日まで、
“この時期になっても
まだ真夏日が続き…”と
お天気キャスターがいっていたはずが
ときおり肌に触れる風を
急に冷たく感じるようになりました。

こうなると、秋は駆け足で深まり、
瞬く間に冬が訪れるので、
秋を満喫できる期間が
意外と短いことに気づきます。

この時期のお楽しみは、
なんといっても美味しい食材が
スーパー店頭に並ぶことです。

秋に旬を迎える食材はかなり豊富で、
野菜や果物、魚など、
陳列される種類が一気に増え、
商品棚の彩りや商品構成の厚みに
圧倒され、
改めて
秋の訪れを実感させてくれます。

今回は、
秋が旬のサンマと双璧ともいえる、
この時期の美味しいサバについて
紐解きます。

サバの中でも、
市場に多く出回るマサバは、
7月から2月が旬。

“秋サバ”“寒サバ”とも呼ばれる、
産卵を終えたこの時期のマサバは
脂ののりが良いのが特徴です。

普通は産卵で
エネルギーを使い果たした
魚のメスは、
あまり美味しくないのが一般的。

しかし、サバは、
産卵後にも寒流で運ばれた
栄養豊富なプランクトンを餌として
体内に脂肪を蓄えます。

サバは、“オメガ-3脂肪酸”や
“DHA(ドコサヘキサエン酸)”
などの健康に良い脂肪を豊富に含み、
これらの脂質と筋肉組織が
身を引き締め、
特有の風味を持たせるため、
一層美味しく感じさせるようです。

ゴマサバは、
一年を通して市場に流通し、
年中安定した味や脂ののりが特徴。

とりわけ冬場の大きなゴマサバは、
さらに脂が乗って、
一層美味しくなっているようです。

その昔、
日本海で獲れたサバを
山越えで内陸部の街へと運んだ道を
「鯖街道」と呼び、
その歴史は古いものだと
奈良時代まで遡る
ともいわれています。

「鯖街道」といえば、
若狭湾・小浜と京都市街を結ぶ
ルートである
“若狭街道”が有名ですが、
これ以外にも、島根・出雲から
広島へと続く“宍道尾道街道”や
鳥取・境港と岡山・津山を結ぶ
“出雲街道”、
鳥取・酒津から
兵庫の山間の集落に運ばれた
“因幡街道(若桜往来)”、
若狭から京都に向かう
“高浜街道”は、別称“西の鯖街道”
とも呼ばれる最短ルートですが、
険しい山道を
越えなければなりません。

さらに若狭湾から近江に抜け
関ヶ原へと抜ける“北国脇往還”、
福井・越前から
美濃・郡上八幡までの“美濃街道”
などの“鯖の道”があります。

“サバの生き腐れ
(新鮮そうに見えているが
腐り始めている)”に表されるように
サバの鮮度は落ちやすいとされ、
氷が貴重な時代に
傷みやすいサバを、
一昼夜かけて運ぶための
さまざまな工夫が誕生。

多くは、サバを素材として
使いやすくするために塩を振る方法で
京に着く頃には程よい塩加減で
身も締まり、食卓を賑わしました。

これ以外にも、
魚と米飯を漬け込んで発酵させた
“なれずし”や、
サバを1年間、糠に漬け込んだ
“へしこ”、
酢で締めたサバを棒寿司にした
“鯖寿司”、
サバを1尾まるごとに
串に刺して焼いた“浜焼きサバ”など
美味しく食べる工夫が
生み出されました。

どれも冷え込んだ夜半、
熱燗にぴったりの肴といえます。

菊正宗が誇るうまい辛口の王道。「菊正宗 嘉宝蔵 雅 720mL」を熱燗で一杯。

黄色く色づき始めたイチョウの木が並ぶ街路で、涼しい秋の足音を感じて。

街路樹としてイチョウが植えられているのには、ちゃんとした理由があります。

イチョウの街路樹が
黄色く色づく頃、
夏の厳しい暑さも和らぎ、
日が落ちた後の風には
涼しさを感じる
過ごしやすい季節となりました。

ここから一気に冬へと、
季節は駆け抜けていきます。

日本全国に植えられている街路樹で
もっとも多いのがイチョウです。

それに続くのが、
サクラ、ケヤキで、
どれも落葉樹です。

落葉樹は冬の到来とともに
文字通り“葉を落とす”ので、
一見、街路樹には
不向きのような気がします。

しかし、
落葉樹が多く植栽されているのは、
短い期間だけ花を咲かせるサクラ、
季節ごとに葉の色を変える
イチョウやケヤキなど、
四季の変化を楽しむ日本人特有の
感覚を大切に考えた
景観づくりのようです。

サクラの花びらや
赤や黄色に色づいた落ち葉が、
ハラハラと散り落ちる様子や
絨毯のように道を覆う様子、
くるくると風に舞う様子など、
それぞれのシーンに
季節の風情を感じさせてくれます。

季節を彩る美観のためには、
清掃の手間を惜しむことはありません。

また春から夏にかけて
青々と生い茂った葉が
涼しい木陰をつくって
夏の直射日光を遮るとともに、
樹木が持つ余分な水分を
葉の裏側の気孔から
蒸散する働きにより、
涼感を肌に感じさせてくれます。

逆に、冬になって葉は枯れ落ち、
冬のやわらかい陽射しを
遮ることなく届けてくれるのも、
落葉樹の効果ともいえるでしょう。

とりわけイチョウが
街路樹として好まれるのには、
いくつかの理由があります。

イチョウの木は、成長が早く、
冬の寒さや病害虫に強く、
剪定しても樹木が弱ることなく
成長を続けるため、植栽後、
数年で街の景観に馴染むとともに、
強い樹木ならではの
管理のしやすさが好まれるポイント。

成長が早い割に
樹齢1000年以上とされる
ご神木クラスの巨木も
全国に点在するようで、
長命種だからこその
植え替えの手間がかからないのも
魅力のひとつといえます。

余談ですが、
歌舞伎の世界で、
長寿とその生命力の強さから
イチョウを用いた家紋は、
片岡家(松嶋屋)が
“追いかけ五枚銀杏”、
中村家(中村屋)が
“角切銀杏(すみきりいちょう)”、
市川染五郎(高麗屋)が
“三つ銀杏”を縁起の良い
“瑞祥紋(ずいしょうもん)”
として用いています。

また、
街路樹が植えられる場所は
道路沿いが多く、
車の排気ガスにさらされる
過酷な環境への順応も
大切な要因です。

さらに、
他の木と比べて
幹や葉の水分量が多いので、
火に強い特性があります。

イチョウの木によって
延焼を食い止めたという事例も
多く報告されているようです。

さて、
イチョウにつきものなのが
銀杏(ギンナン)で、
地面に落ちたギンナンは
歩行者に踏まれ、
独特の鼻につく臭いが
拡まってしまうという
問題点もあります。

イチョウはオスメスが分かれる
雌雄異株で、ギンナンの
実をつけるのはメスの木。

現在は、その対策として、
実をつけないオスの木に
植え替えるなどの方法も取られ始め、
地域によっては、
地域の人たちにギンナンを
持ち帰ってもらうイベントなどの
取り組みも行われています。

普段あまり気にすることがない
イチョウですが、改めて見上げると
その力強さを再認識させてくれます。

ギンパックから生酒登場!炒った銀杏を肴に一杯いかがですか。              「菊正宗 キクマサギン生酒720mL

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“実りの秋”。たわわに実った稲穂に想いを馳せる。

「お米」はずっと、お金の代用品としての役割が続きました。

秋も深まり、郊外に足を延ばすと、
たわわに実った稲穂がこうべを垂れ、
一面に広がる
黄金色に染まった景色が、
“実りの秋”を感じさせてくれます。

時折吹く一陣の風が
穂先を揺らす様は、
水面に波紋が広がるような
美しさにも似て、
まさに日本の原風景そのもの
といったところです。

人と稲の付き合いが始まったのは
約3万年前の石器時代のこと。

それまでは
野生の獣や魚、木の実を獲って
食べていましたが、
野生の稲の種子を蒔いて
収穫することを覚え、
食料を生産するようになると同時に、
同じ場所に定住するという概念が
生まれました。

日本に
大陸から米作りが伝わったのは、
約12000年から2500年前の縄文時代。

日本米のルーツとなる
“ジャポニカ米”で、
アジア稲作圏の最後に
日本へと伝播したのですが、
日本の高温多湿な気候風土に
適していたこともあり、
稲作は瞬く間に定着。

日本全国に稲作が広まったのは
紀元前5世紀から
紀元3世紀半ばにかけての
弥生時代とされています。

静岡県の「登呂遺跡」からは、
畦(あぜ)で区分けされた
弥生水田が発掘され、
用水路や水を湛えるための
堰(せき)が整備され、
併せて、
水田の近くに竪穴式住居や
高床式倉庫の跡も見つかっており、
いわゆる“農村”の原型は
この時代に確立し、
米作りを中心に
社会ができていきました。

卑弥呼が治める
邪馬台国が台頭したのも、
ちょうどこの頃です。

大和時代から時を経て、江戸時代へ。

いつの時代も社会の中心にあったのは
“お米”です。

米の生産能力が高く、
多くを備蓄できる古代の豪族や
武家社会の藩が権力を持つ、
いわゆる“お金”の役割ということが
江戸中期辺りまで続きました。

食べ物としての“お米”は
ずっと貴族階級の特権で、
庶民がお米を
食べられるようになったのは
江戸時代になってからのことです。

それも
節句などの特別な“ハレの日”に
食べる程度で、
普段は粟や稗などの雑穀が中心。

時代劇などでは
年貢の取り立てが厳しく、
農民は
米を食べることなどできなかったと
描かれていますが、
実は精米がことの外、重労働で、
日々忙しい農作業にかまけて
自分たちの食事にまで
手が回らなかったという説も。

また、美味しいご飯の炊き方の
“初めチョロチョロ、中パッパ、
赤子泣いてもふたとるな”
という表現は江戸中期に
確立したといわれています。

しかし、現代のように、
当たり前に白いご飯を食べる習慣が
根付いたのは、
第二次世界大戦以降に
なってからです。

お米の品種改良によって
育てやすい品種が生まれ、
農業機械の導入が著しくなり、
精米技術が格段に向上したことなど、
白いご飯を主食とするだけの背景が
整ったといえるかも知れません。

またお米の品種改良は、
食用米だけでなく、
心白の大きい酒造好適米(酒米)の
誕生も促しました。

人との長い付き合いの
“お米”ですが、
現在のように普通に食卓で
美味しく食べられるまでに
要した時間は、
日本に伝わってからの
少なく見積もっても約2500年以上。

この遥かな歴史に思いを馳せ、
美味しくご飯をいただき、
旨い酒を飲む喜びを、
改めて噛み締めたいものです。

きもと造りの本醸造酒を一夏熟成し、生詰めした “ひやおろし 720mL