令和元年、菊正宗は創業360年。日本酒の王道の歴史です。

創業から一歩一歩。その積み重ねの360年。

令和元年、菊正宗酒造は
創業360年を迎えます。

1659年(万治2年)、材木商として
名を馳せていた嘉納治郎太夫宗徳が、
神戸・御影にあった
本嘉納家(嘉納家本家の通称)
の本宅屋敷内に酒蔵を建て、
本格的な酒造りを開始したことが
菊正宗の歴史の第一歩となります。

当時、酒造業は先端の製造業で、
いまでいうベンチャーのようなもの。

ただ、当時の“灘”は、まだまだ
大きな銘醸地ではありませんでしたが
、灘の酒を急速に発展させたのは、
18世紀末頃の江戸への“下り酒”の
人気です。

なかでもとくに、“本嘉納家の酒”は
、江戸の町で人気を博しました。

ちなみに、
「嘉納」という姓は、約700年前、
御影「沢の井の水」で酒を造り、
これを後醍醐天皇に献上したところ、
ご嘉納になったことに由来。

「嘉納」とは、
“ほめ喜んで受け取ること”を意味
しており、そこから「嘉納」の姓
を賜ったとのいい伝えがあります。

一般的な日本酒の
醸造技術の背景としては、
江戸時代初期を過ぎたあたりから、
低温・長期発酵という醸造条件、
農閑期で優秀な杜氏が
確保しやすいということで、
冬期の「寒造り」が主流に。

保存のための「火入れ(低温殺菌)」
、香味をととのえるとともに
歩留りを良くし、
火落ち菌の増殖を防ぐ柱焼酎による
「アルコール添加」など、
現在の日本酒造りの基礎となる
技術が確立した時代でした。

明治になり、
8代目嘉納治郎右衞門(秋香翁)は、
“良い酒を造る”という信念のもと、
巨費を投じて酒質の向上改善に
取り組み、業界に先駆けた技術改善
などで、さらに品質を高め、
今日の基礎を築きました。

江戸時代より頑に守りつづけた
「生酛造り」は、いまなお受け継がれ
ている技術のひとつです。

時代の流れとともに、試行錯誤により
確立してきた日本酒の醸造技術も、
科学的に解明されることにより、より
高い技術へと磨きぬかれています。

さらにその技術をもとに実際の製品
にするための機械化も進み、
長年にわたって培われた“味”は、
より美味しい“旨さ”として代々
受け継がれてきたといえるでしょう。

ちなみに、
360年前に建てられた酒蔵は、
1960年(昭和35年)に移設し、
菊正宗酒造記念館として
一般公開していましたが、
残念なことに1995年(平成7年)
の阪神淡路大震災により倒壊。

幸いにも、館内の
国指定・重要有形民俗文化財に
指定された「灘の酒造用具」や
所蔵する小道具類の多くは無事、
もしくは修復可能な状態で、
4年後に新しく生まれ変わった
菊正宗酒造記念館で、
引き続き常設展示しています。

“カタチあるものは、
いつかなくなる”のは世の常。

建て替えたとはいえ、記念館の“凛”
とした空気感は受け継がれており、
創業当時へといざなってくれます。

菊正宗が、江戸で名を馳せた“時代の世相”。

菊正宗創業時の元号「万治」から
数えて、34番目の元号が「令和」。

天皇一代につき一元号とする
「一世一元の制」が定められたのは
明治以降のことで、
それ以前は天皇の在位中でも、
災害などさまざまな理由で
改元が行われていました。

また、新たな天皇が即位しても、
元号が変わらない場合も
しばしばあったということなので、
34人の天皇が即位された
という訳ではありません。

創業時の「万治」も、
江戸の「明暦の大火」により
改元された元号です。

当時は、江戸幕府の
第4代将軍・徳川家綱の時代。

第3代将軍・徳川家光の薨去
(こうきょ/皇族や三位以上の人の死
)により、長男の家綱が、
わずか11歳で将軍職に就任しました。

在職約30年における治世当初は
政情不安に見舞われるものの、
その後は安定政権を維持した
との記録が残されています。

また江戸で灘の「下り酒」が、
人気を博したのは1730年(享保15年)頃。

菊正宗の創業から約70年もの
歳月が過ぎていました。

この時代を知るという意味で、
創業当時の徳川家綱が登場する
時代劇映画やドラマとして、
「影の軍団 服部半蔵」や
「魔界転生」などがあります。

また下り酒が流行ったのは
第8代将軍徳川吉宗の時代。

いわずと知れた「暴れん坊将軍」
があまりにも有名です。

脚本や脚色で史実とは
異なることもありますが、
時代世相や町の様子を知る上では、
手がかりのひとつといえます。

酒を飲むシーンに、菊正宗の足跡を
重ね合わせて観るのも面白いのでは。

新しい時代「令和」を迎え、
またひとつ菊正宗の歴史が刻まれます。

平成時代に「香醸」や「天使の吐息」
が登場したように、令和時代の
新しい“旨さ”に期待は高まるばかり。

菊正宗 天使の吐息