2020年の干支は“庚子(かのえね)”②
菊正宗創業の干支は、そのひとつ前の“己亥(つちのとのい)”。

菊正宗 燗酒 囲炉裏

穏やかな徳川時代とともに約200年も歩んだ菊正宗の歴史。

菊正宗酒造は、2019年(令和元年)
に創業360年を迎えました。

菊正宗酒造の創業は、
1659年(万治2年)で、
干支は “己亥(つちのとのい)”で、
第4代将軍、徳川家綱の時代です。

2周期目の“己亥”は、
1719年(享保4年)で
第8代将軍、徳川吉宗。

いわずと知れた享保の改革や財政復興を
成し遂げた“暴れん坊将軍”です。

3周期目となる“己亥”が
1779年(安永8年)で、
第10代将軍、徳川家治。

さらに4周期目の“己亥”が
1839年(天保10年)で、
第12代将軍、徳川家慶。

5周期目となる“己亥”が
1899年(明治32年)となり、
ようやく徳川の時代が終わり、
近代国家の幕開けとなります。

創業以来、
徳川幕府と約200年以上も、
ともに歩んだ計算となるのです。

江戸時代というと、
“ちょんまげ、着物、刀”などの
イメージが伴いますが、
徳川家康から徳川慶喜まで
約260年は、比較的、
平和で緩やかな時代で、
初期と末期では当然、
文化や文明の進歩があります。

そんな歴史の流れの中に
菊正宗があったことを考えると
感慨深いものがあります。

灘から江戸に向けて
“下り酒”を届ける樽廻船が登場
したのは1730年(享保15年)、
菊正宗創業70周年あたりのころです。

それまでも菱垣廻船で、
醤油や米、糠などの他の物資と一緒に
灘酒を運んでいました。

18世紀末頃には
“下り酒”人気が高まり、
菊正宗で醸造したお酒のほとんどを
江戸に運んでいた
という記録が残っています。

創業から約120年も経ったころ。

武士はもとより、庶民にも
菊正宗は行き渡っていたほどの量が
届けられていたことが背景となり、
現在でも東京の料飲店の多くで、
菊正宗を採用いただいています。

江戸は世界一人口が多い都市でした。

1603年(慶長8年)に
徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、
江戸の市街地の普請(ふしん)に
着手した頃の人口は約15万人程度。

それが、1721年(享保6年)の
人口調査で、江戸の人口は
110万人という記録があり、
最盛期は200万人とも
いわれています。

当時の世界に目を向けると、
ロンドンが約86万人、
パリが約56万人という
文献が残されているので、
江戸は世界で一番
人口が多かったとのこと。

驚くのはその人口密度。

身分によって住むエリアが
厳格に決められており、
江戸人口の半分にあたる
約50万人の町人が、
住むのを許された
江戸の約15%のエリアに
くらしていました。

数字に換算すると
1k㎡あたり約6万人の計算に。

現代と比較すると、
もっとも人口密度の高い
とされる豊島区が約2.2万人。

さらに江戸の町そのものが
今よりもかなり狭く、
高層住宅など存在しない
平屋づくりばかりなので、
長屋と称される場所で、
喜怒哀楽に満ちあふれた
芋洗い状態で暮らしていた
様子が想像されます。

江戸の昔は、
現在ほどの娯楽がない時代。

当時を振り返ってみると、
灘から江戸に送られた“下り酒”は、
多くの庶民に愛された
楽しみのひとつであったことが、
うかがい知れます。

江戸に住む多くの人々に
愛された菊正宗ブランドは、
360年経ったいまも、変わらぬ
美味しさを全国に届けています。