関東と関西で異なる「鏡開き」の日と、その基準となる“松の内”明け日。
1月11日は日本記念日協会によって
認定された“樽酒の日”で、
これは、もともとあった
鏡餅を木槌で割って食べる
「鏡開き」の日に
由来するものということは、
今年最初のコラムで紹介しました。
実は「鏡開き」の日、関東と関西では
少々事情が異なります。
これには、
いささか説明が必要のようです。
まずは、“正月飾り”のお話から。
穀物の神様である年神様を
正月にお迎えするための
“正月飾り”の歴史は古く、
奈良時代から平安時代にかけて、
現在のような“正月飾り”の
スタイルがほぼ確立。
その代表格ともいえる
注連縄(しめなわ)や門松、
松飾り、鏡餅などは、
年神様がお正月にとどまる
“依り代(よりしろ)”
とされています。
これらの正月飾りは、
年神様が家に滞在する
“松の内”だけ飾られ、
“松の内”明けには、
それぞれのしきたりに沿って
片付けられます。
注連縄や門松、松飾りなどは、
1月15日に、
神社境内などに設けられた
“どんど焼き”や
“左義長(さぎちょう)”
と呼ばれる神聖な火に焼(く)べ、
灰を家の周りに撒いて
1年間の厄災を払い、
豊作や商売繁盛、家内安全、無病息災
、子孫繁栄を願うのが一般的です。
鏡餅は「鏡開き」の日に
木槌で割って、割ったお餅を
欠片も残さず食べることで、
神様から霊力を分けてもらい、
1年の良運を願います。
さて、ここからが本題の
「鏡開き」の日の
関東と関西の異なる事情ですが、
ズバリ「鏡開き」の日が
異なることです。
これは、元となる
“松の内”の日が異なるためです。
一般的に“松の内”は、
正月事始めとされる
12月13日からはじまり、
1月7日まで。
そして、「鏡開き」は
1月11日に定められています。
これは関東を中心に、
東北、九州など多くの地方でのこと。
一方、関西を中心とした地方では
1月15日までが“松の内”で、
「鏡開き」は1月20日。
ところによっては
“松の内”明けの15日、
また京都の一部では
“松の内”にかかわらず
三ヶ日が明けたら「鏡開き」を行う
地域もあるようです。
この関東と関西で
日にちが異なるのには、
ちゃんとした理由があります。
関東で“鏡開き”の日が、1月11日に定められた理由。
かつては全国的に、
“松の内”は15日までで、
「鏡開き」は“松の内”が明けた
1月15日もしくは1月20日に
統一されていました。
これは、武家の具足祝いを、
刀の“刃(は)”と
“柄(つか)”にかけて
“刃柄の祝い(はつかのいわい)”
転じて「二十日の祝い」と呼び、
20日に行っていました。
ところが江戸幕府三代将軍の
徳川家光が4月20日に亡くなり、
月命日の20日の祝い事を
避けるようになり、
“松の内”を7日までと
定めると同時に、
武家屋敷や商家が使用人や取引先に
お餅を振舞っていた
11日の“蔵開き”に
「鏡開き」の日を
合わせることとなりました。
これには別の説もあり、
1657年(明暦3年)の江戸での
“明暦の大火”の反省により、
燃えやすい松飾りや門松を
早めに片付けるために
“松の内”を早めたという
お話もあります。
余談ですが、
この“明暦の大火”の2年後の
1659年(万治2年)、
菊正宗が神戸・御影にて
創業を開始しました。
いずれにせよ幕府のおふれは
地方にまで届かず、関西では、
もともとの“松の内”が15日までで、
「鏡開き」が1月20日という
慣習が残ったとも伝えられています。
鏡餅の飾り方も、
関東と関西では少し異なります。
餅と橙(だいだい)に、
干し柿を串に刺した
“串柿”を挟むのが関西の習わしで、
関東に住む人からすると
少し違和感があるようです。
柿は、喜びが来るという意味で
“嘉来(かき)”という字をあてた
語呂合わせ。
鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)、
串柿は天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)、
橙は八尺瓊勾玉
(やさかにのまがたま)を
象徴した正月飾りで、
古来より伝わる
三種の神器を表している
という説もあります。
いまは情報が瞬時に伝わる時代。
それにくらべて昔は伝達が遅く、
もともとの関西の習慣が残され、
いまだその伝統は
統一されることなく、
地域の文化が尊重されて
ずっと守られているという
ひとつの例です。
こうした文化の継承は
末永く残したいものです。