新しい東京での生活がスタート。
名前も、「伸之助」から「治五郎」へ。
1871年(明治3年)、
明治政府に招聘されていた
父の元に身を寄せるように
新たにスタートした新都東京の生活。
廃藩置県直前で、街行く人は
刀を差して歩いているような江戸から
近代へと生まれ変わる、
ちょうど時代の節目を
迎えた時期でした。
新都東京にあふれている
文明開化の風を感じて
チョンマゲを切り落とし、
決意も新たに
幼名の「伸之助」から
「治五郎」へと改名。
しかし、
家族は以前と変わることなく、
“伸坊(しんぼう)”という
愛称で呼んでいたといいます。
末っ子だったこともあり、
家族の愛情を一身に注がれる
存在だったようです。
この頃、父の治郎作は、
勝海舟の要請を受けて
海軍省高級官僚に就いており、
日本橋蛎殻町に構えていた
父の邸宅に引っ越したのでした。
引っ越しして間もなく、
「治五郎」は、父の勧めもあって、
自宅からほど近い両国の
“成達書塾(せいたつしょじゅく)”
に入塾。
この塾を主催する
生方桂堂(うぶかたけいどう)から
“新時代に処するには、是非
洋学を勉強しなければならないが、
それには先ず以って
日本精神を固めて
おかなければならない”
との教えを受け、その手段として
書道を叩き込まれたといいます。
「治五郎」は、
この師の教えを忠実に守り、
晩年になっても時間があれば
習字に没頭しました。
また、師と仰ぐ
生方桂堂からの助言で、
高名な洋学者の
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)
が主催する
“三叉学舎(さんさがくしゃ)”
の門を叩き、書道と同時期に
英書を学び始めました。
どちらも実力が試される
高いレベルの学習私塾でしたが、
「治五郎」は困難であればあるほど、
目の前に立ちふさがる難題に
負けじと食らいついて行った
といいます。
そして、14歳になった
1873年(明治6年)、
親元を離れて芝烏森にあった
“育英義塾”に入って
寄宿生活を送りました。
ここではオランダ人が教頭、
ドイツ人が助教授で、
すべての学科を英語で教える
という徹底ぶり。
ここで英語、ドイツ語を学びました。
「治五郎」の成績は数学が群を抜き、
漢学、英学も得意分野で、
天文学を専攻しようと思った時期も
あったようです。
その後、1974年(明治7年)に、
東京帝国大学の前身である
“官立外国語学校”に入学し、
翌1975年(明治8年)に卒業。
そしてすぐに
“官立開成学校”に入学し、
1977年(明治10年)、
同校が“東京帝国大学”に改称
されたため、文学部に編入し、
政治学、理財学、哲学を専攻。
また、大学に通うかたわら、
夜間は“二松学舎”の塾生となって
漢学を学びました。
1881年(明治14年)に
“東京帝国大学”を卒業した後も、
同じ文学部の道義学、審美学の分野へと
進学。
その時、「治五郎」は22歳。
旺盛な学習意欲は尽きることなく、
世の中にある学問という学問を
すべて吸収するがごとく、貪るように
学問を求めて突き進みました。
「嘉納治五郎」が感じていた、
小さな身体と虚弱体質へのコンプレックス。
「治五郎」は、大学入学前の
“育英義塾”に通っていた頃、
もともと身体が小さく、
虚弱体質であったことで、
体力、腕力が備わった同窓の学生に、
なかなか勝てないことに
コンプレックスを感じていました。
そのことをずっと悔しく感じており、
自分のような非力な者でも、
体躯の備わった強い相手にでも勝てる
という柔術を学びたいと、
常々考えていたと後に語っています。
彼の身長は158cm足らずだった
という記録が残されていますが、
明治当時、男子の平均身長は
155cm程度だったことを見ると、
平均より少し高い身長
だったようです。
そんな思いを、
父の治郎作に相談したのですが、
父から返ってきたのは
“学業を怠るもの”としての
反対の意見でした。
というのも、治郎作は当時、
海軍権大書記官の政府高官の
職に就いており、「治五郎」にも、
大学卒業後に高級官僚になることに
期待していたからに他なりません。
しかし、
食い下がる「治五郎」の熱意に負け、
“必ずやり遂げるなら許す”
と折れました。
ここから、「嘉納治五郎」の
柔道の道がようやく始まります。
それまで、
さまざまな学問を究めてきた彼が、
どのように柔道に取り組んだのか。
次回から、
いよいよ柔道編に突入します。
※参考文献
全建ジャーナル2019.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第2話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第3話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓