嘉納治五郎物語⑦
欧州視察からの帰国、結婚、単身赴任。
波乱に満ちた1年。

嘉納治五郎師範夫妻結婚当時_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 夫妻 結婚(明治24年)当時
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

欧州視察から帰国した年、
人生の大きな分岐点となった
二つの出来事。

1年4カ月にもおよぶ
長い欧州視察から
「治五郎」が帰国したのは、
1891年(明治24年)1月のこと。

長旅の疲れを癒す意味もあり、
帰国後は、
姉の勝子の嫁ぎ先である
東京麻布の柳邸に
しばらく逗留することに。

ずっと働き詰めの
「治五郎」にとって、
久しぶりのまとまった休息でした。

休んでいる間に、勝海舟の紹介で
漢学者の竹添進一郎と会う機会があり
、それが縁で、竹添の次女の
須磨子との婚儀がまとまります。

出会って数カ月の決断でした。

「治五郎」がそんな
人生の大きな節目を迎えている中、
彼の知らないところで、もうひとつの
彼の人生を左右する動きが。

学習院と文部省との間で、
帰国後の「治五郎」の処遇を巡って、
何度か話し合いが持たれており、
その結果、
“熊本の第五高等中学校
(現熊本大学)校長就任”と
“文部省参事官就任”の2つの要請が
「治五郎」に示されました。

熊本からの要請は
校長在職中ということで断り、
文部省参事官の要請を承諾。

ところが、第五高等中学校校長が
急逝したことで再要請があり、
文部省参事官兼務で
校長に就任することを
決断しました。

それまで教授として籍を置いていた
学習院の教壇を去ることに、
一抹の寂しさを感じたといいます。

同年8月に、
熊本での校長就任を前に、
姉の嫁ぎ先の柳邸にて
挙式を上げました。

新郎である「治五郎」が32歳、
華族女学校卒業前の
新婦の須磨子は18歳。

本当なら、これから
新婚生活が始まるところですが、
約1カ月あまり後の9月には、
新妻を東京に残したまま、
熊本の第五高等中学校に
任期3年の校長として、
単身で赴任しました。

「治五郎」が洋行帰りの
知識人であったことに加え、
“講道館柔道”の創始者
としての名声も熊本に届いており、
全校生徒に羨望の眼差しで
迎え入れられたといいます。

1891年(明治24年)は、
1月に帰国して、8月に結婚、
9月には熊本に単身赴任。

1年も経たない間に、
人生の大きな岐路を
2つも経験するという、
とても忙しい年となりました。

 

 

嘉納治五郎師範写真中央_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 写真中央 五高集合写真 左の横を向いているのがハーン
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

赴任地の熊本で、
「治五郎」の教育に対する思いは、
より深く育ちました。

熊本に校長として赴任して、
まず行ったのが柔道場づくりです。

ただ、それに充てる予算がないため、
校長官舎の物置に床をつくって
畳を入れ、自宅の道場は完成。

学校の生徒控所のタタキの上に
40畳の畳を敷いて
学校の道場もできたこともあり、
自宅と学校の両方で
“柔道”を教え始めました。

幸いにも、弟子の柔道家を
連れてきていたので、
彼を助手に「治五郎」自らが
指導の毎日。

そして、学内にとどまらず、
九州を代表する
柔術諸流派の協力を仰いで、
“柔道”の普及による
“九州柔道”の基礎を築きました。

また、自身が指導する
“柔道”だけでなく、
剣道、弓道、野球などのスポーツを
学内生活に取り入れるなど、
その時代としては珍しい
スポーツ振興を導入したのも、
新しい教育の一環といえます。

続いて、人事面でも
独自の手腕を発揮します。

アメリカ人教師で、その時すでに
作家としても名を馳せていた
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
を教授として、前任地の
島根県松江から招聘したのも、
教授陣の充実を図る
取り組みのひとつです。

ハーンは、
日本文化に深く傾倒しており、
“柔術”を創設した
「治五郎」への興味と
日常的に英会話を使いこなす
親近感から、「治五郎」を
深く敬愛していました。

その強い思いから、
後に「東の国から」という
著書の中の“柔術”で
「治五郎」と交わした言葉が登場。

この本を通じて
欧米へと“柔道”が広まり、
やがて世界の舞台へと
送り出されることになります。

赴任地の熊本で、まだまだ
やろうとしていたことが
数多くあったにも関わらず、
3年の任期を半分過ぎたあたりで、
第五高等中学校長の任を解かれ、
文部省参事官兼図書課長として
呼び戻されることになりました。

「治五郎」はその要請を
快く思わず、また地元熊本では
留任運動が巻き起こるほど
愛されていました。

しかし、辞令は覆ることなく、
1年半の勤務は終わりを告げます。

熊本を後にすることが決まり、
その送別会の挨拶で、
「治五郎」は
“余は実に忍びず、余は実に苦しむ…
九州なるかな、九州なるかな、
余は九州を愛せり”と。

わずかな期間であったが
「治五郎」が成し遂げたことは、
とても一人の人間が成し得ることが
できないほどの教育改革でした。

その経験は、
その後の教育現場に生かされ、
さらに磨き抜かれたものに
なって行きます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.8月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第8話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓