嘉納治五郎物語⑩
老いてなお、精力的に。
治五郎は79年を駆け抜けました。

嘉納治五郎師範ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)_菊正宗ネットショップブログ
ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)右から嘉納 治五郎 師範、チージンバイン船長、ガーランドアメリカIOC委員
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

関東大震災の復興のために、
オリンピック大会への参加で士気を鼓舞。

1923年(大正12年)9月1日、
巨大地震が首都圏を中心に発生。

関東大震災です。

地震発生直後に各地で火の手が上がり
、首都圏は、死者・行方不明者は
10万5000人ともいわれる
未曾有の大災害に見舞われました。

震災時、「治五郎」は樺太に出張中で
、“柔道”の講演や実技指導を
行ってるところでしたが、
急いで帰京。

すぐに、講道館を開放して
震災被災者の受け入れを開始し、
その数は延1000人を
数えたといいます。

復興がままならない状態で、
関東大震災の翌年の
第8回パリオリンピック大会
への参加を見送ることも
検討されましたが、
大日本体育協会は、
“大震災の復興に向けて、
国民の士気を鼓舞するために、
もっとも質素に
選手選考大会を開催して
代表選手を選び、
第8回パリオリンピック大会に
選手を派遣する”と決定。

“それまで積み上げてきた
スポーツ界の進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”
という、「治五郎」の主張が
受け入れられることとなりました。

また、この関東大震災に前後して、
講演、実技指導などによる
“柔道”の普及活動をはじめ、
女子教育の一環となる
“女子柔道部”を講道館に開設、
柔道理念を明確にした
“講道館文化会”の創設、
IOC(国際オリンピック委員会)
委員に就任して以降、
国際会議への参加や
オリンピック大会の視察など、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
精力的に世界を駆け回りました。

とくに、第一次世界大戦で
壊滅的な被害を受けた
ベルギーの復興をめざした
第12回アントワープ
オリンピック大会では、
ヨーロッパ各国の政治経済状況や
混乱ぶりをつぶさに視察、
求めに応じて
“柔道”の講演や実演も実施。

“柔道”の基礎となる精神を
世界に伝えるために、
“精力の最善活用によって
自己を完成し(個人の原理)、
個人の完成が直ちに他の完成を助け、
自他一体となって共栄する
自他共栄(社会の原理)によって、
人類の幸福を求める”を意味する
「精力善用 自他共栄」を
という言葉を大きく発信して、
その理念を説いていきました。

そして、この
「精力善用 自他共栄」
を校是とする旧制灘中学
(現在の灘中・高等学校)を、
生まれ故郷の神戸に開校するために、
酒造両嘉納家や地元富豪の
篤志を受けた資金確保、
教職員の人材確保に奔走し、
1927年(昭和2年)に開校。

現在も、
「治五郎」の精神を受け継いだ
自由闊達な校風でありながら、
トップクラスの進学校として
名を馳せています。

 

嘉納治五郎師範氷川丸_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 氷川丸にて
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

東京オリンピック成功に向けた外遊中に
…巨星、墜つ。

関東大震災の復興と
帝都東京の繁栄を
国内外にアピールする狙いで、
1940年(昭和15年)に
開催される第12回
オリンピック大会を
東京に招致することを、
時の東京市長
(現在の東京都知事)らが提案。

第5回から参加して以降、
メダルを獲得するにまでなり、
「日本書紀」に基づく
日本建国2600年(皇紀)にあたる
記念すべき年ということもあり、
“東洋初のオリンピックを東京で”
という動きが起こりました。

その背景には、前年の
世界大恐慌の余波による
日本経済の大打撃を
払拭する目的も含んでいます。

波乱含みであった国内での問題も
なんとか解決し、
1932年(昭和7年)に、東京市長名で
オリンピック招請状をIOC
(国際オリンピック委員会)に提出。

1935年(昭和10年)の
IOCオスロ総会にて
開催地が決定する
という返事が返ってきました。

「治五郎」は
1933年(昭和8年)に開催された
ウィーンでのIOC総会に出席して
東京招致を主張し、
その後のIOCカイロ総会では、
東京招致に反対する
イギリスを中心とした
英連邦諸国の応酬に対して、
ひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
主張を曲げることは
ありませんでした。

その甲斐あって
1937年(昭和12年)、
東京オリンピック大会の招致が
決まりました。

IOCカイロ総会後に、
前年に死去した
クーベルタン男爵の埋葬式に参列。

さらに日本支持の感謝を伝えるべく
アメリカに渡った後、
カナダのバンクーバー発の
大型客船での帰路、
風邪に肺炎を併発した
「治五郎」は帰らぬ人に。

1938年(昭和13年)
5月4日逝去、享年79歳。

老齢を押して奮闘する
矍鑠(かくしゃく)としていた
彼の死は突然の出来事で、
驚きを隠せない新聞各社は
“巨星墜つ”という見出しで
報じました。

「治五郎」の急逝により、
オリンピック参加への精神的支柱と
参加にかける情熱は失速。

第二次世界大戦に向かって
軍靴の音が鳴り響く中、
“平和の祭典”である
東京オリンピック大会は返上され、
“幻の東京オリンピック大会”
となりました。

このことをもっとも
残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは
いうまでもありません。

人の何倍も学び、
人の何倍も働き、
人の何倍も考えた
「治五郎」の人生は、私たちが
どんなに頑張っても届かないほど
厚みのある充実した人生です。

ただ、その陰には必ず、
それを上回るたゆまぬ努力があり、
それは、歯を食いしばりながら
未知なる道を
拓き続けたことによるもの。

神戸御影の海沿いの町で
生まれ育った頃から続く、
勤勉さや深い興味、じっちょくさ、
負けん気は、歳を重ねても
変わることはありませんでした。

それは、彼が歩み続けた
苦難の長い道のりが証明しています。

※参考文献
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第15話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第16話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓