毎年、お盆は“迎え盆”に始まり、
“送り盆”で終わります。
前回に続いて…再び、お盆の話題。
お盆の時期は地域によって
やや異なります。
もともとの旧暦のお盆の期間は、
7月13日から16日でした。
明治初旬、旧暦から新暦に変わる際に
お盆期間は地域によって
大きく3つのパターンへと移行。
新暦採用に伴って、
そのままの日にちの
7月13日から16日を採用したのは、
一部を除いた東京都心部、
金沢の旧市街地、静岡市など。
“新のお盆”“東京盆”
とも呼ばれています。
“新のお盆”と呼ぶのは、
人が亡くなって49日の法要を終えて
初めて迎えるお盆の
“新盆(関西では“初盆”)”
と区別するため。
2つめのパターンは、
他の地域より1日短い、
旧暦7月13日から15日のまま
(2022年(令和4年)は
、8月10日から8月12日)
の沖縄、奄美エリア。
ちなみに、沖縄の伝統芸能の
エイサーは盆踊りのことです。
そして、それ以外の
ほぼ全国的なエリアでは、
新暦8月13日から16日。
旧暦の季節感を
そのまま受け継いだ“月遅れ”
を採用したもの。
“旧盆”“月遅れ盆”
と呼ばれています。
これには諸説ありますが、
農家が多かった当時の背景から、
梅雨が明け切っていない農繁期を
避ける意味で、
旧暦の季節感を選んだ地域が
多かったのかも知れません。
地域によって異なりますが
一般的なお盆は、
13日の“迎え盆”で始まります。
午前中にお墓参りを済ませ、
夕方頃に盆提灯にあかりを灯し、
玄関の軒先などで、
“迎え火”を焚いて
ご先祖様のお迎えを
(集合住宅などでは
盆提灯のみでも構わない)。
14、15日は“盆中日”。
13日にお墓参りができなかった方は、
この“盆中日”にお墓参りを。
本来のお寺さんの来訪は
この2日間なのですが、現在は
お盆前に来られることもあります。
そして、16日の“送り盆”に
ご先祖様をお送りするため、
夕方に“送り火”というのが
一般的なお盆のスケジュールです。
ちなみに、“お盆休み”は、
江戸時代、商家に勤めていた奉公人が
夏と冬に、実家に帰省するために
休みをもらった“藪入り”という
風習の名残。
夏の休みは、
旧暦7月16日に与えられました。
この日は、仏教の
“閻魔の賽日(地獄の獄卒)”
ともいわれ、地獄の釜の蓋が開いて、
地獄に堕ちた人や鬼が
責め苦から解放される日で、
それを取り締まる地獄の番人も
お休みとなる日なのです。
大きく異なるお盆行事の「灯籠流し」と「精霊流し」。
お盆の最終日の“送り盆”を
締めくくるのは、“送り火”です。
この“送り火”は、
“迎え火”とくらべると、
意外と壮大な夏のイベントとして、
暦に刻まれています。
京都の“五山の送り火”や
箱根の“強羅大文字焼き”、
終戦記念日に平和を祈念する意味を
含めた奈良の“大文字送り火”
などが有名です。
全国的に行われる「灯籠流し」も
“送り火”の意味を持つことが多く、
河川敷や海岸のお祭り、
花火大会と一緒に開催される
夏の風物詩のひとつ。
地域によっては、お盆よりも前に、
空襲の戦没者の慰霊の意味を持つ
「灯籠流し」が
行われることもあります。
一般的に「灯籠流し」は、
毎年お盆の終わりに行われる
その地域に伝わる風習で、
火を灯した灯籠を川や海に流し、
先祖の魂をあの世に送り戻す儀式です。
さて、この「灯籠流し」と
混同されがちなのが
「精霊流し(しょうろうながし)」。
さだまさしの楽曲が披露されたことで
一躍有名になりました。
この歌の物悲しいメロディーや
厳かで叙情的な歌詞を聴くと、
「精霊流し」に
「灯籠流し」と同じような
繊細なイメージをいだきます。
しかし、実際の「精霊流し」は
長崎エリアを中心に行われる
ローカル行事で、その雰囲気は、
「灯籠流し」とは、まったくの別物。
長崎の「精霊流し」は、
盆前に亡くなった遺族のために
船をつくり、盛大に極楽浄土へ
送り出す伝統行事なのです。
8月15日の夕方、
長崎市内の主要道路には
交通制限が掛かり、
路面電車も止めて、
「精霊流し」の流し場まで
大小さまざまな
遺影を乗せた精霊船が並びます。
移動中に遺族が鐘を鳴らし、
爆竹の音が街中に
響きわたるのですが、
とくに派手さを競うかのような
爆竹の音量は凄まじく、
当日は耳栓が売り切れるとまで
いわれています。
また精霊船の大きさもケタ違い。
全長10メートル以内と
決められるほど、こちらも競って
大きな船が集まります。
何より驚くのは
条例で海に流せないということ。
時間が来ると精霊船は重機で壊され、
粗大ゴミに。
そのゴミ処理に追われるため、
しばらくは粗大ゴミの持ち込みが
できなくなるようです。
思い描いていたのとは異なる
「精霊流し」。
故人への思いで、
悲しみに明け暮れることを考えると、
こういう賑やかな偲び方を望むのは、
他ならぬ故人なのかも知れません。