38年ぶりに、1万円札の肖像画が福沢諭吉から渋沢栄一へ。

2月3日は、福沢諭吉の命日 “雪池忌(ゆきちき)”。

2月3日は福沢諭吉の命日で、
“雪池忌(ゆきちき)”
と呼ばれています。

この“雪池”とは、
彼が一時期名乗っていた
雅号に由来する呼び方です。

1901年(明治34年)に亡くなって
半世紀以上経った
1963年(昭和38年)辺りから、
彼の命日を“雪池忌”と
呼ぶようになりました。

作家の命日を偲ぶ日を、
雅号や代表作、
ペンネームなどを用いた
“文学忌”と呼び、
その習慣は、
松尾芭蕉の“芭蕉忌”が広まった
江戸時代にまで遡ります。

明治以降は
俳句と関わりのあった
夏目漱石の“漱石忌”、
芥川龍之介の“河童忌”
などが有名で、
その忌日が俳句の季語として
定着していきました。

第二次世界大戦後は
太宰治の“桜桃忌”など、
一般の小説家にまで広がって、
遺族や関係者、ファンなどが
命日を偲ぶ意味が
より深くなっていったようです。

近年は、
漫画家の手塚治虫の“治虫忌”、
水木しげるの“ゲゲゲ忌”、
歌手で作詞家の
河島英五の“桜風忌”など、
その範疇の幅は
広義に捉えられるようになっています。

福沢諭吉といって、
まず思い浮かぶのは、
日々目にする1万円札の肖像画です。

1万円札が初めて発行されたのは
1958年(昭和33年)のこと。

最初の肖像画は聖徳太子で
1986年(昭和61年)まで
28年間発行されました。

二人目に採用された福沢諭吉は、
1984年(昭和59年)から
2022年(令和4年)までの38年間、
三人目となる渋沢栄一の1万円は
2024年(令和6年)7月から
発行開始となります。

お札に載るほどの人物たちですから、
その功績は計り知れません。

福沢諭吉の経歴について
簡単に紐解きます。

1834年(天保5年)
大分県の中津藩士の家に生まれ、
19歳の頃には
長崎や大阪で蘭学を学びます。

一度中津に戻った後、
23歳のときに江戸で蘭学塾を創立。

これが、
後の慶應義塾大学の母体となります。

25歳のとき、幕府の命を受け、
咸臨丸に乗ってアメリカ視察に。

このとき同行したのが勝海舟で、
船上でのいさかいが元で犬猿の仲に。

この二人の関係は
生涯を通して
修復することはありませんでした。

この初渡航の2年後、
27歳でヨーロッパ各国、
そして32歳でアメリカへと再渡航。

1868年(慶応4年/明治元年)、
王政復古の大号令によって
明治新政府が発足した際に、
複数回の海外経験が
新政府の目に止まります。

すかさず
官職に就くことを求められますが、
これを断り、
蘭学塾を港区芝に移し
「慶應義塾」と名付けました。

その後、
ベストセラーとなった
「学問のすゝめ」をはじめとする
数多くの教育系の著書を執筆刊行。

そうした偉業が
お札の顔として認められたようです。

「慶應義塾」創設者の福沢諭吉は、
しばしば「早稲田大学」創設者の
大隈重信と比較されがちです。

もともと、大隈は福沢を
“生意気”“気に食わない”と
嫌っていました。

ところが、明治初期、
共通の知り合いが
二人を引き合わせます。

大隈が30代半ば、
福沢が40歳くらいで
初対面でしたが、
話すうちに意気投合し、
これをきっかけとして
家族ぐるみの付き合いになった
とのこと。

こちらは終生、
いい関係が続いたといいます。