他の国にルーツを持つラーメンやカレーは、日本で異次元の進化を遂げました。

日本の食文化は、量、質ともに世界トップクラスのハイスペック。

日本の“食の文化”は、世界的に見て
かなりハイスペックです。

日本の食事は、家庭の食卓が中心。

長い歴史の中で
家族の胃袋を満たしてきたのは、
いわゆる“おふくろの味”。

家庭の味を守ってきた母親の料理技術は
プロ顔負けの包丁さばきで、
それぞれに伝わる味付けや料理の工夫が
家庭の数だけあります。

日本と世界の食文化とを比較した時に
大きく異なるのは、
食卓に並ぶ料理の品数が多く、
同じ料理が続くことは
あまりありません。

世界の食事情と比べると、
台湾は朝昼晩すべて外食で、
夜は屋台が人気。

フランスはパンやハム、チーズなど
火を使わない料理が中心で、
夜もデリのお惣菜など、
並べるだけの晩ごはんが中心とか。

平日は料理を作らない
という家庭も多いようです。

アメリカの晩ごはんは外食が多く、
平日の夜は
それほど手の込んだ料理をせず、
レトルトや冷凍食品で
済ますことも多いとのこと。

欧米諸国の多くは、
ほぼ同じようなもので、
日本ほど手間をかけないのが実情です。

それ以外にも、
卵や魚を生で食べる日本特有の食文化は、
世界でも稀なところ。

卵の衛生管理は
世界最高水準と称されるほど
徹底していて、
卵が原因のサルモネラ食中毒の発生は
年間数件ほど。

生の卵を食べる国がほとんどないため、
外国人には奇異に映るようです。

海に囲まれた島国の日本、
昔は魚を焼いて食べていましたが、
やがて塩漬けや干物にする
保存技術が確立。

江戸後期になると
魚を刺身や寿司にして食べるようになり、
やがて江戸前寿司のブームが
庶民に広がりました。

鮮度を保つため、
数々の経験から学んだ
ワサビや醤油の殺菌効果を応用した
工夫など、衛生管理技術も
向上していきました。

また、地域ごと、季節ごとに
獲れる魚は異なります。

魚の成長時期によって脂の乗りや
身の引き締まり方、
傷む速度にも差があるなど、
獲れた魚を美味しく食べる手法は
それぞれの地域に伝承されてきました。

そして現在、日本全国の
美味しい魚の情報は共有され、
世界に類を見ない
魚大国となっています。

ラーメンやカレーなど、
他国にルーツを持つ料理も、
日本で進化を遂げました。

ラーメンは中国発祥ですが、
スープへのこだわりから、
元々の中華スープに加え、魚介系、
豚骨醤油、鶏白湯など
素材から旨いエキスを取り出すための
試行錯誤が繰り返され、
未だ発展途上というから驚きです。

インドからイギリスを経由して
日本に伝わったのは、
いわゆる欧風カレー。

固形ルーの商品化によって
家庭料理として確立し
日本の家庭料理となりました。

元々のカレーライスから、
和風だし風味を加えたカレーうどんや
パンの具に盛り込んだカレーパン、
スパゲティと一緒に炒めた
カレースパゲティなど
料理の種類が変化しながら
進化し続けています。

日本の飲食店の数は
世界でもトップクラスの多さで、
取り扱う料理の幅もバラエティ豊か。

それにも関わらず、食事の中心は
家庭料理なのです。

そんな恵まれた食環境に
普段気づくことはありません。

しかし、世界から見た時、
日本が食のワンダーランドであることは
間違いないようです。

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38年ぶりに、1万円札の肖像画が福沢諭吉から渋沢栄一へ。

2月3日は、福沢諭吉の命日 “雪池忌(ゆきちき)”。

2月3日は福沢諭吉の命日で、
“雪池忌(ゆきちき)”
と呼ばれています。

この“雪池”とは、
彼が一時期名乗っていた
雅号に由来する呼び方です。

1901年(明治34年)に亡くなって
半世紀以上経った
1963年(昭和38年)辺りから、
彼の命日を“雪池忌”と
呼ぶようになりました。

作家の命日を偲ぶ日を、
雅号や代表作、
ペンネームなどを用いた
“文学忌”と呼び、
その習慣は、
松尾芭蕉の“芭蕉忌”が広まった
江戸時代にまで遡ります。

明治以降は
俳句と関わりのあった
夏目漱石の“漱石忌”、
芥川龍之介の“河童忌”
などが有名で、
その忌日が俳句の季語として
定着していきました。

第二次世界大戦後は
太宰治の“桜桃忌”など、
一般の小説家にまで広がって、
遺族や関係者、ファンなどが
命日を偲ぶ意味が
より深くなっていったようです。

近年は、
漫画家の手塚治虫の“治虫忌”、
水木しげるの“ゲゲゲ忌”、
歌手で作詞家の
河島英五の“桜風忌”など、
その範疇の幅は
広義に捉えられるようになっています。

福沢諭吉といって、
まず思い浮かぶのは、
日々目にする1万円札の肖像画です。

1万円札が初めて発行されたのは
1958年(昭和33年)のこと。

最初の肖像画は聖徳太子で
1986年(昭和61年)まで
28年間発行されました。

二人目に採用された福沢諭吉は、
1984年(昭和59年)から
2022年(令和4年)までの38年間、
三人目となる渋沢栄一の1万円は
2024年(令和6年)7月から
発行開始となります。

お札に載るほどの人物たちですから、
その功績は計り知れません。

福沢諭吉の経歴について
簡単に紐解きます。

1834年(天保5年)
大分県の中津藩士の家に生まれ、
19歳の頃には
長崎や大阪で蘭学を学びます。

一度中津に戻った後、
23歳のときに江戸で蘭学塾を創立。

これが、
後の慶應義塾大学の母体となります。

25歳のとき、幕府の命を受け、
咸臨丸に乗ってアメリカ視察に。

このとき同行したのが勝海舟で、
船上でのいさかいが元で犬猿の仲に。

この二人の関係は
生涯を通して
修復することはありませんでした。

この初渡航の2年後、
27歳でヨーロッパ各国、
そして32歳でアメリカへと再渡航。

1868年(慶応4年/明治元年)、
王政復古の大号令によって
明治新政府が発足した際に、
複数回の海外経験が
新政府の目に止まります。

すかさず
官職に就くことを求められますが、
これを断り、
蘭学塾を港区芝に移し
「慶應義塾」と名付けました。

その後、
ベストセラーとなった
「学問のすゝめ」をはじめとする
数多くの教育系の著書を執筆刊行。

そうした偉業が
お札の顔として認められたようです。

「慶應義塾」創設者の福沢諭吉は、
しばしば「早稲田大学」創設者の
大隈重信と比較されがちです。

もともと、大隈は福沢を
“生意気”“気に食わない”と
嫌っていました。

ところが、明治初期、
共通の知り合いが
二人を引き合わせます。

大隈が30代半ば、
福沢が40歳くらいで
初対面でしたが、
話すうちに意気投合し、
これをきっかけとして
家族ぐるみの付き合いになった
とのこと。

こちらは終生、
いい関係が続いたといいます。

1月30日は、勝海舟の生誕の日。存命ならば、今年201歳になります。

「当時は“勝麟太郎”や“勝安房”と呼ばれることが多かった勝海舟。

今から201年前の
旧暦1823年(文政6年)の1月30日、
江戸本所の小普請の旗本の家に
勝海舟は生まれました。

勝海舟という名前は
広く知れわたっていますが、
“海舟”は彼の号で、
本名は“義邦”。

昔は
実名で呼ぶのを敬って避けると
いう風習があったため、
幼名の“麟太郎”を
通称として使っていました。

また、幕府要職に就いた際には
“安房守(あわのかみ)”を
名乗ったことから、略して
“勝安房(かつあわ)”
とも呼ばれました。

明治維新後は、
幕府官位の“安房”を使うことを避け
同音である“安芳”を名乗りました。

時は江戸末期。

身分に縛られた社会で
出世などほとんど望めない時代。

しかし、1853年(嘉永6年)、
ペリーが黒船で来航し、
開国を迫る出来事が
彼の人生を
大きく変えることになりました。

アメリカの開国要求に対して、
幕府は幕臣をはじめ、
諸大名から町人にまで
広く海防に関する意見書を公募。

麟太郎が上申した
“西洋式兵学校の設立と
幕府による
正確な翻訳書刊行の必要性”
を説いた海防意見書が、
当時の目付兼海防掛だった
大久保一翁(忠寛)の
知遇を得ることにつながり、
幕府の海軍機関へと入所。

1860年(万延元年)には、
アメリカへと派遣された
使節団を護衛する
咸臨丸(かんりんまる)の
艦長として随行。

日本とはまったく異なる
近代的な政治や経済、
文化などを目の当たりにして、
その見識を深めました。

帰国後すぐに近代海軍の強化に尽力し
神戸に海軍操練所を設立。

このとき、麟太郎は、
菊正宗の分家にあたる
嘉納治五郎の父・治郎作と親交を深め
勝海舟は神戸・御影の嘉納宅にも
たびたび足を運びました。

また、同じ頃、
坂本龍馬との出会いもありました。

当時、
幕府軍艦奉行に就いていた
麟太郎邸を訪れた勤王攘夷派の龍馬の
本当の目的は、麟太郎の暗殺。

しかし麟太郎の
“外国との交易で
西欧に負けない国力を付け、
防衛力を強化する”
という考えに感化された龍馬は、
麟太郎の弟子に。

お互い命のやり取りをする
敵対組織にありながら、
師弟関係を築ける大らかさが、
日本の近代化を
より急ぎ足で進めたのは、
興味深い偶然ともいえるでしょう。

麟太郎の功績は、
数多くあります。

そのひとつが、
幕府による「第二次長州征伐」を
長州藩との根回しによって
停戦に導いたこと。

また、1867年(慶応3年)の
大政奉還において、
新政府軍との戦いを主張する
旧幕府軍の幕臣たちを説き伏せ、
戦うことなく江戸城を明け渡した
「無血開城」も、
江戸の町を戦禍から守った
大きな功績といえます。

幕末を語る上で、
どうしても
豪放磊落な坂本龍馬に
スポットが当たりがちです。

しかし、龍馬の功績に
勝るとも劣らない勝海舟の偉業も、
もっと
評価されて良いようにも思います。

とくに幕府の要職に就きながらの
組織を超越した活躍ぶりは、
後世に多くの学びを残しています。

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