嘉納治五郎物語⑥
最愛の父の死と、大きな転換期となった欧州視察。

嘉納治五郎師範講道館創立の頃_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 講道館創立の頃
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

父、作之助の死に呆然自失。

「治五郎」が学習院の
幹事兼教授に抜擢された
1885年(明治18年)9月、
父の治郎作が享年74歳で他界。

亡くなる前の年に、
海軍権大書記官に
任命されたばかりでした。

突然、心の支えを失った
「治五郎」の喪失感は大きく、
しばらくは暗澹(あんたん)たる
日々が続いたといいます。

父が亡くなって数年が経った
1888年(明治21年)のこと、
学習院第4代院長に
三浦梧楼が就任しました。

「治五郎」が唱える
“華族、士族、平民の区別のない
平等教育の実施”
という意見に対し、
新しい院長は
“学習院は華族の学校なので、
華族優先の差別教育”
を主張したため、真っ向から対立。

どうしても意見を変えない
「治五郎」を疎ましく思う
新院長から、宮内省御用掛として
欧州への海外視察を命じられ、
苦々しくもこの提案を
受けることになったのです。

併せて、教頭職は解かれること
となりました。

そんなこともあり、
教育に対する情熱に
やや陰りを感じた「治五郎」は、
欧州視察の出航の前に、
師と仰ぐ枢密顧問官の
勝海舟の私邸を訪ねました。

欧州での見聞をもとに
学問に没頭しようとする考えを
告げたところ、
勝は笑みをたたえながら、
それを一蹴。

“それはいけない。
社会で事を成しつつ、
学問を成すべきだ”と諭され、
その忠言を深く受け止めました。

この短い言葉に込められた、
“高等教育者として、
また講道館師範として、
現場での研鑽を積みながら、
東西の学問に打ち込め”という
勝のエールに、
決意を固めた「治五郎」でした。

翌1889年(明治22年)9月、
最初の欧州視察がスタートしました。

1年4カ月にもおよぶ長期視察では、
フランス、ドイツ、オランダ、
オーストリア、イギリスなどを訪問。

とくにその国々の
教育制度の視察を中心に、
国民性や文化の見聞を広げました。

その様子は彼の“英文日記”に
つぶさに書き記されています。

この欧州視察での
「治五郎」の感想は、
“欧州の人に会うと、
知識ではかなわないと
感じることもあるが、
能力という点で
引けを取ることはなかった。

著名な教育者に面会しても、
日本人より優れているとは
必ずしも思わない。

もし劣っているとすれば、
日本は新しい教育になってからの
日が浅く、制度や人材などが
整っていないに過ぎない”
というもの。

そして、改めて教育の大切さを
自覚し直したといいます。

余談となりますが、
日本への帰路の船上で、
屈強な巨漢のロシア人士官を
“柔道”で投げ飛ばしたことが
新聞記事となり、
全国に彼の名や“柔道”を
広めることになりました。

 

柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段_菊正宗ネットショップブログ
柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

「治五郎」の“柔道”が一躍有名になった、
警視庁武術大会での勝利。

さて、「治五郎」が興した
“柔道”はというと、
1885年(明治18年)5月まで、
時は遡ります。

警視庁総監の三島通庸が催した
武術大会で、“講道館柔道”が
“警視庁柔術”を制するという
前代未聞の出来事が起こり、
“講道館柔道”の名が一躍、
世間に知られることとなります。

武術大会では、
“講道館”と“警視庁”が
それぞれ代表を出して、
行われたのは2試合。

最初の試合、
相手は巨漢で一門を代表する
四天王のひとりを繰り出します。

“学生柔道ごときに何ができる”
と舐めてかかった猛者に
臆することなく、
無名の白帯が
絞め技で失神させて完勝。

続く試合も
約30cmの身長差がある相手が、
力任せに挑んでくる力を
応用して技を掛け、
こちらも完勝で試合を決めました。

まさに“柔よく剛を制す”試合運びが
世間を沸かせたのは、
言うまでもないことです。

翌年も同じように
警視庁武術大会が開かれ、
“講道館柔道”と“警視庁柔術”が再戦。

最初の試合は
多彩な技で相手を翻弄した
“講道館柔道”の勝ち。

続く試合は、実力伯仲の
1時間にもおよぶ接戦が続きました。

関節技を極めたものの、
面子を重んじた相手が
参ったといわないため、
審判判定により
引き分けとなりました。

とはいえ、試合運びでは
“講道館柔道”の完全勝利で、
名実ともに、
“講道館柔道”の名前を
天下に轟かせる
キッカケとなりました。

何より、試合の勝ち負けだけに
こだわる柔術から、
試合後にお互いの健闘を讃え合う
“柔道”に大きく傾く
瞬間だったのかも知れません。

とくにこの最後の試合は、
後々までの語り草となりました。

最初の大会が行われたのは、
父の治郎作が亡くなる
約4カ月前のこと。

父として、
息子の「治五郎」がめざした
“柔道”が、世間に
大きく知れわたったことに喜び、
立派に成長した息子の姿を
微笑ましく思うとともに、
例えようのない幸福感を
感じ取ったに違いありません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.6月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第6話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.7月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第7話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

2021年6月25日 クレジットカード決済 メンテナンス実施のお知らせ_菊正宗ネットショップ

お客様各位

平素は多大なるご愛顧を頂きまして誠にありがとうございます。

メンテナンス期間中にクレジットカード決済をご利用いただけない場合がございます。

その際はお手数をおかけいたしますが、再度、お試しください。

ご迷惑をおかけいたしますことを深くお詫び申し上げますとともに、あらかじめご了承いただけますようお願い申し上げます。

~システムメンテナンス日時~
2021年6月25日(金)
午前01:00 ~ 午前06:00
※作業状況により、時間が多少前後する場合がございます。

ご利用のお客様にはご迷惑をおかけ致しましますが、今後ともご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2021年6月22日 クレジットカード決済 メンテナンス実施のお知らせ_菊正宗ネットショップ

お客様各位

平素は多大なるご愛顧を頂きまして誠にありがとうございます。

メンテナンス期間中にクレジットカード決済をご利用いただけない場合がございます。

その際はお手数をおかけいたしますが、再度、お試しください。

ご迷惑をおかけいたしますことを深くお詫び申し上げますとともに、あらかじめご了承いただけますようお願い申し上げます。

~システムメンテナンス日時~
2021年6月22日(火)
午前01:00 ~ 午前06:00
※作業状況により、時間が多少前後する場合がございます。

ご利用のお客様にはご迷惑をおかけ致しましますが、今後ともご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

嘉納治五郎物語⑤
“柔道”が軌道に乗り、新たに教育者として一歩を踏み出す。

永昌寺_1882.2-1883.2_菊正宗ネットショップブログ
永昌寺_1882.2-1883.2
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

“柔道”の概念も固まり、
門人が集まり始めました。

1879年(明治12年)、
「治五郎」は、
父の治郎作と交流のあった実業家の
渋沢栄一からの依頼により、
渋沢の飛鳥山別荘にて、来日中の
アメリカのグラント前大統領の
歓迎のための御前試合を
披露することになりました。

師の福田八之助ほか、
磯正智師範など大先輩らとともに
柔術の形を演じるという
貴重な体験で、
師範格に混じった唯一の大学生で、
英語に秀でていたこともあって、
ひと際目立つ存在であったことは
確かです。

翌1880年(明治13年)には、
東京大学の学園祭で開かれた、
“天神真楊流”の原点となる
“楊心流戸塚一門”の演武披露に
飛び入り参加。

小柄の「治五郎」が
“楊心流戸塚一門”の巨漢と
試合をして勝ち、
一躍、世間の話題に。

「治五郎」がめざしたのは、
それまでの柔術で認められていた、
喉を突いたり、武器を使う
危険な技を排除した、
精神的な規律を重んじる
理論的な武術で、
試行錯誤を繰り返しながら、
東京大学卒業の
1881年(明治14年)、
「治五郎」が22歳の年に
“柔道”は確立されました。

翌年の1882年(明治15年)、
東京上野の永昌寺に
“嘉納塾”
“講道館”
“弘文館(宏文館)”
という3つの教育事業拠点を開設。

“嘉納塾”は、
目先の利に捉われない
大きな視野を持った
将来を担う人材の育成、
“弘文館(宏文館)”は
留学生受け入れを兼ねた英語学校
という目的で開設されました。

そして“講道館”は、
ご存知のように今につながる
“柔道”の拠点です。

ここでは、“柔道”への理解を
深めてもらうため、
“練体法
(体育的に身体が凝り固まることなく
自在かつ敏捷(びんしょう)な
強さを習得)”、
“勝負法
(攻撃と防御を兼ね備えた
武術としての柔道)”、
“修心法
(智徳の修養と柔道の原理を
実生活に応用する研究と実行)”
の3つに分けて解き、
これらの技法を重ねて
会得することで、
“心・技・体”の備わった
人格形成につながるもの
と考えていました。

“講道館”は、この地から
幾度かの移転を繰り返し、
1958年(昭和33年)に
現在の東京文京区春日に移り、
現在に至っています。

ちなみに、10年後の
1893年(明治26年)まで、
約2600人の門人を抱えました。

しかし、いずれの入門料や学費を
一切徴収することはなく、
赤字経営を覚悟の上で、
「治五郎」がすべて自己負担。

学習院での給与や英書翻訳などの俸給
を運営補填に充てたといいます。

それほど、
人の教育の大切さを理解し、
実践するために、
つねに未来を見据えた活動へと
広くつなげて行きました。

 

嘉納治五郎師範草創期2列目左から4番目_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 草創期 2列目左から4番目
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

「治五郎」の教育者としての第一歩。

柔術から“柔道”へと
着実に足場を固めていく
「治五郎」でしたが、
多彩な彼の才能は、教育現場でも
新しい道が開き始めます。

それは、まだ東京大学哲学選科
(現在の大学院)に在学していた
1882年(明治15年)、
卒業を間近に控えた彼に
学習院から教師の要請が
舞い込んできました。

政治学と理財学(経済学)を
英書で教えるクラスと
日本語で教えるクラスへの
教師要請です。

大学選科で学問を続けながら
勤務できることもあり、
嘱託を快く承諾。

いわゆる“華族の学校”である
学習院の教壇に立つのを
要請されたことは、
まだ若かった「治五郎」にとって、
とても誉れ高い出来事であった
という言葉が残されています。

その後、
1885年(明治18年)には、
学習院の幹事兼教授に抜擢。

これは、
華族会館が運営する私立学校から、
宮内省管轄の官立学校に転換した
ことも大きく影響しています。

そして
翌1886年(明治19年)には、
学習院の教頭に昇任。

“柔道”を広く啓蒙するかたわら、
教育者として一歩を踏み出した
26歳のことでした。

晩年、「治五郎」は、
講道館柔道師範としての
功績だけ語られるのを
決して快く思っていなかった
といいます。

というのも、学習院講師を皮切りに、
政治学や理財学(経済学)、哲学など
、さまざまな分野で教鞭を執り、
睡眠時間を惜しむように
英米仏の論文を読破し、
翻訳も手がけるなど、
「治五郎」のあふれる才能は、
多岐に発揮されました。

そういう意味で、“柔道”は、
「治五郎」の人生のひと欠片に
過ぎないのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第4話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.5月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第5話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

2021年6月29日 メンテナンス実施のお知らせ_菊正宗ネットショップ

お客様各位

平素は多大なるご愛顧を頂きまして誠にありがとうございます。

システムメンテナンスを行うため、サイトへのアクセスを停止させていただきます。
ご迷惑をおかけいたしますことを深くお詫び申し上げますとともに、あらかじめご了承いただけますようお願い申し上げます。

~システムメンテナンス日時~
2021年6月29日(火)
午前01:00 – 午前07:00
※作業状況により、時間が多少前後する場合がございます。

本サイトをご利用のお客様は、該当の時間帯をさけてのご利用をお願い致します。
ご利用のお客様にはご迷惑をおかけ致しましますが、今後ともご愛顧賜りますようお願い申し上げます。